恐怖の大切さ

恐怖にはよいイメージがありません。恐怖を好む人もいません。しかし、恐怖でないと分からないことがあり、恐怖を通じないと得られない人間性があります。

私は高所が苦手です。危ない車よりも安全な飛行機を嫌う、理屈抜きの高所恐怖症です。飛行機が揺れるとすぐこのまま落下するのではと心配してしまいます。

自分で会社を創業して5年たった頃、出張のため乗っていた飛行機が強風に遭いました。もともと飛行機の揺れを嫌う私ですが、経験したことのない激しい揺れに動揺し、遺書を準備しようかと思いました。

周りの人は誰もそんなことをしていないのをみて我慢しましたが、急にある思いがこみ上げてきました。「遅刻した社員にあんなにきつく言わなければ良かった」とか「彼女と喧嘩したときに自分はもっと寛容になるべきだった」とか、とにかく自分の思いやりの欠如を後悔しました。そしてひそかに自分に言い聞かせました。「無事に降りられたら、身の回りの人々にもっと優しくする」と。

もちろん、飛行機は乱気流を通過し、またいつもの静かな機内に戻りましたが、私はその時なぜ自分があんな反省したかについて自問しました。私は生き延びるという交換条件と引き換えに反省した訳ではありませんでした。ただ恐怖に直面したとき、自分は自然にやさしくなれたのです。

よく死の危機を経験した人は、その後人生観が変わると聞きますが、なんとなく分かります。われわれ人間は思うほど理性的ではないのです。あれこれの理屈は、教わっても心には響いていないケースがほとんどです。本当に心に響く瞬間とは、意外と恐怖を感じた時です。

特定の組織や個人が他人を恐怖に陥れることによって他人を服従させようとする行為は恐怖政治とテロといい、許されませんが、人生経験としての病気、事故、災害による恐怖経験は決して無駄にならないと思います。

また、恐怖はいろいろな次元があります。取引の損失も恐怖ですし、長い間目指した昇進が絶たれたことも恐怖です。合格の可否を知らせる封筒を開けるのも恐怖のはずです。恐怖はその取り組みの真剣さとも比例するものです。真剣ではない人にとっては、その分恐怖も少ないはずです。

望んでいる訳ではないのですが、どんな恐怖も人間の心を広げてくれる効果があります。「失敗を恐れるな」という説教がありますが、これほど無責任な説教はないと思います。失敗は恐れるべきです。失敗は恐怖です。われわれがその恐怖を通じてこそ知恵を学び、謙虚、且つ強靭な心を得るのです。

失敗を恐れないのではなく、失敗を恐れながらその恐れに耐えるのです。
この記事へのコメント
普段我々は自分の意識で見える範囲だけが自分だと思っています。その意識は、経験に対する反応の蓄積の集積にすぎません。(それゆえ、意識上で起きた感情はすべて言葉で遡れます。)
ところが意識が動きを止めた時、別の自分が出現します。恐怖に限らず、心の底から笑った時、瞑想をしている時、などに現れる、意識としての自分が驚く存在が自分の中には、います。
それがなんであるかは、ここでは議論しません。が、宋さんが書かれている「自然に優しくなれた」自分はあきらかに宋さんの一部なのです。
そして大事なことは、理由が言葉にならないことです。理性の塊のような宋さんですら、言葉にならないのです。
自分の意識外にいる自分の声を聞くことは、私は大事だと思っています。
Posted by たかお at 2008年05月30日 09:16
はじめまして、いつも興味深いお話をおうかがい出来て、宋さんの思慮の深さに驚きさえ覚えます。今回の「恐怖」についての向き合う際の捉え方。非常に面白いですね。結びの「恐れながら耐える」という件に、これが本音の心境だな!と
共感致しました。私事、昇進での躓き、病気、等47歳にしていくつかの災難に見舞われておりますが、自分にとっては将来に向けての「恐怖」でありますが、冷静に考えれば、自業自得の産物でもあるのです。やはり、「耐える」力が最後には必要なんですね。一朝一夕に片付いていきませんが、何とか寡黙に耐えていければ、それが力となるかもしれないとも思いました。
今後も宋さんの「智恵袋」期待しております。ありがとうございました。
Posted by 櫻井 爾 at 2008年05月30日 09:38
恐怖は人間が生きていく上で必要な本能だと思います。全ての動物にある生存本能から来る恐怖のみでなく、人間が営む社会生活上における特有の恐怖もあります。しかし人間は、時にしてその恐怖に立ち向かわなければなりません。人間が素晴らしい生き物であるのは、その恐怖に立ち向かう勇気があるからではないでしょうか?。智恵があるからではないでしょうか?。そうやって人間は様々な脅威や障害や壁を乗り越えて来ました。
でも、それは先生のおっしゃる様に恐怖というものを心底感じてこそ、その本質を知り抜いた賜物だと思います。
ビジネスにおいても様々なリスクが伴い、それも言わば経営者にとっては、恐怖に繋がるものです。でもその恐怖を感じる感覚が無ければ、リスクマネジメントもせず、無謀な経営に走ってしまいます。私の好きな経営の座右の銘に「悲観的に考え、大胆に行動する」という言葉があります。経営判断する時は、いつも最悪の状況を想定し、そのリスクマネジメントを施した上で、敢えて、そのリスクを冒して勝負に出ると言う事です。でも、その結果、得られる事とその代償があまりにも高くつく場合は、その勝負を捨てるべき状況も当然あります。その判断のバロメータこそ、恐怖心だと思います。でも、事前に手を打てる事を全てやり尽くし、その恐怖を克服して天命を待つという、そうした覚悟を決めて物事にあたるという事も人生にはとても大切な事だと思います。
Posted by 白石 哲也 at 2008年05月30日 09:41
今回の宋氏の文章に私も思い当たることがありました。検診の精密検査にひっかかったときです。「死ぬかもしれない」と思ったとき、一日一日を大事にしようと思い、今でも(なるべく)実行しています。
「真剣ではない人にとっては、その分恐怖も少ないはずです。」も思い当たります。反面教師にしています。
陳建さんのコメントでお父様が60歳を超えてビジネスをする、その気迫は、私を含め日本人に足りないものだと、心に響きました。今日が一番若い日、まだまだ冒険できますね。
Posted by 片山 at 2008年05月30日 10:36
こんにちは。
いつも楽しく拝読しています。
お忙しい中執筆活動お疲れ様です。

いやー、今回も良かったです!
(ありふれた表現ですが、そうとしか書けません)
やっぱり最終段落での”落ち”が抜群に(日本人以上に???)うまいですね。

”終わり良ければ全て良し”というコトワザ(慣用句)があります。何事も最後の部分での印象が、全体を支配してしまう事が多い・・・例え、前半や中盤が悪かろうとも・・・といった皮肉なニュアンスも若干込められていますが。そういった意味では、このコトワザは宋さんの記事には当てはまりませんね(笑)

さて、私の職務の一部である新人・中堅社員への研修の中から一つご紹介します。”置き換え(逆転)話法”と言います。コールセンターで新人のコール・テイカー(正確にはOUTBOUND(こちらからの外線発信)がメインのため”テイカー(受け手)では無いのですが)に対し、ベーシック研修の最初で教えます。

一言で言えば、”終わりに、良い事が来るように、話しの順番を逆転させるだけ”です。

例文:
良い例:
宋さんって、日本人では無いですが、日本人よりわかりやすい日本語の文章を書かれるんですね。
悪い例:
宋さんって、日本人よりわかりやすい日本語の文章を書かれるんですが、日本人では無いんですね。

この二例を読み返してみると、読後の印象がそれぞれ異なっているのに気づかれると思います。

英語は、結論が先に来て、修飾句が後に来るセンテンス構造かと思います。しかし日本語は(中国語はどうなのでしょうか?存じ上げません)どちらかと言えば、結論を末尾に持ってくる傾向があります。そのために、文章を最後まで読まないと、肯定文なのか否定文なのか、賛成なのか反対なのか、わからない事が多いです。

脱線してしまいましたが・・・、ご紹介した”逆転話法”は、ビジネスでも、家族・友人・恋人などでも使えます。自分の相手に伝えたい点を、効果的にアピールする方法の一つとして覚えて、使って損は無いかと思いますので、この場でご紹介させていただきました。

私も事故で死にかけた経験があります。失業して収入が途絶えた事もありますし、人生でさまざまな失敗を味わって参りました。

”どんな恐怖も人間の心を広げてくれる効果があります。”名文ですね。いや本当に同感出来ますし、この一言で私の人生を全て言い表していただいた・・・少し大袈裟でしょうか(笑)・・・そんな気がしています。

そろそろ日本は梅雨に入ります。この季節は一日の寒暖差があり風邪を引きやすい時期です。ご自愛いただき、公演・執筆活動されますようお祈りしています。次回も楽しみです。



Posted by IT営業 at 2008年05月30日 10:41
今回は部分的だが意見の差があるかなと感じながら読ませていただいた。夫々程度の差があるから断定できないが、失敗と恐怖を同じと言い切るのはどうかと小生は思う。失敗とは何かを意図して行動しての結果の問題ではないか。そうすれば行動を起こす段階でリスクを意識するとしないに関わらず感じていたのではないか。恐怖は自分の力を超える力によって自分の運命が断たれるかも知れないという感じだろう。化け物や幽霊に恐怖を感じるのも、その得体の知れないものによってどうされるか分からないからだろう。個人差があるから真実と断定できないが、飛行機乗りに言わせると乗り物としては飛行機より自動車のほうが怖いと言う人も居る由。マスヤジ
Posted by マスヤジ`08 at 2008年05月30日 11:00
「失敗を怖れないのではなく、失敗を恐れながらその恐れに耐える」。多分その通りでしょう。恐怖心を持たない人はまず居ない様に思いますから、誰でも大なり小なり恐れに耐えなが暮らしている筈です。
しかし、それにも限界があると思います。耐え難い恐怖を体験すると、それがトラウマとなって精神的な障害になるし、治療も必要に
なります。
それゆえ宋さんが飛行機を避ける様に、多くの人は、怖い思いをする事はなるべく回避します。失敗を怖れるのも似た様なもので、そのために一生懸命努力する。その分、失敗した時の挫折感や失望感は大きく「人事を尽くして天命を待つ」といった心境には、そうそうはなれないと思いますが、どうでしょうか。
Posted by タマのツルマキ at 2008年05月30日 11:18
人間が合理的な判断が出来ないことは、ノーベル経済学賞を受賞した、ダニエル・カーネマン教授が「行動経済学」という分野で実証研究をしています。教授をモデルにした『ビューテフル・マインド』というすばらしい映画にもなっています。日本では明治大学の友野典男教授が光文社新書で、『行動経済学〜経済は感情で動いている』という良書が参考になると思います。
時間があるときに是非お目と押し下さい。
合理的期待形成仮説と市場原理主義はいつでも誤りを犯します。
Posted by 沼田一博 at 2008年05月30日 11:49
宋さん こんにちは
久しぶりにコメントをお送り致します。
今回の記事はとても大事な事を良くぞ分析されたなと関心致しました。
私が最近よく思う事は、心の病気の事です。最近でこそネットやマスメディアで取り上げられるようになり、社会での認知度も上がってきていますが、相変わらず会社の中ではそのような症状の人に「怠け病だ!」とか、「やる気が無いからだ!」など心ない事を叫ぶ管理職が沢山おります。今や心の病は風邪を引く事と同じくらい罹患する可能性が高まっており、その心ない管理職もいつ自分がかかってしまうかわからないのに、そのような人を見るにつけ「経験しないとわからないのだな」と思ってしまいます。「バカは死ななきゃ治らない」ではありませんが、心の病は叱咤激励は最悪の逆効果、相手が自殺でもすれば貴方のせいだよと言いたくなります。
宋さんの記事の最後にありますように、人の上に立つ人は、相手の恐怖を理解しそれを通じて知恵を学び、謙虚、且つ強靭な心を得るよう努力してもらいたいものです。
Posted by 谷口 喜佳 at 2008年05月30日 11:57
お疲れ様です。
現在、「リスクマネジメント学」を学びながら、コメントを差し上げました。
物理的な危険には、「命の大切さ」を訴える現代社会ながら、その他リスクに「失敗を恐れるな」と無責任な大人が、本当は安全なところから言っている場合が多いのを子どもたちは知っているように感じました。

知見、体験すべての経験が、私の場合、謙虚さをもたらしてもらえます。
大事にしないといけないのですが、まだ「人間勉強中」です(笑)
最近の「無謀」を見て考えたことをコメントされていたので、反応してみました。
Posted by 牧野公彦(法政大学大学院) at 2008年05月30日 12:07
世の中の成功法則の中には、失敗を恐れず行動しろという言葉があります。でも本当の意味は、ご指摘のことなのではないかと思います。全く行動しないのは問題ですが、失敗へのリスクをふまえての行動が必要なのだと思います。
Posted by 平井 修也 at 2008年05月30日 12:08
恐怖とはちょっと違うかもしれませんが、本田宗一郎だったか戦後を代表する経営者が、戦争を経験した後では、何も怖いものはないということをインタビューで語っていたのを思い出しました。極限体験を経て、窮ずれば変ずという環境に至らないとことの本質は掴めないということえしょうか。
Posted by 丸山雅明 at 2008年05月30日 12:12
非常に共感できることです。

でも知恵は「恐怖」では無く、
苦難を乗り越えたとき智恵を学ぶと思います。

言葉の違いかもしれませんが、本当の
「恐怖」は生易しいものではありません。

私は、今、精神疾患と闘っています。

世の中的には、うつ病のようです。

欝から来る恐怖は、生易しいものではありません。
この恐怖は、絶対に体験しないと分りません。

また、事故などでトラウマになるような恐怖もあります。

それらの恐怖は、心身を破壊してしまいます。なにかの創造はしないと思います。
また、一人では決して耐えられません。

しかし、人間がその恐怖や苦難をどのように闘うかどのように乗り越えるかで大きく変化する成長するのではないでしょうか?

つまり、苦難を乗り越える勇気が智恵になるのだと私は思います。

恐れを勇気に返るには、慈悲と哲学が必要です。

失敗を恐れるなとは、
失敗を恐れずに勇気を持てと励ましてあげるための言葉ではないでしょうか?

励ましは 、万の力と書きます。

励まされた人は、百万倍の力と勇気を持って苦難を乗り越える力を得るのだと思います。

恐怖でおののいているひとを、周りの人が励ますことが大切であると「失敗は恐れるな」との言葉の中に含まれているのではないでしょうか?

つまり、失敗を恐れている本人ではなくて、同志や地域の人たちに宛てた言葉ではないでしょうか?
Posted by toshiharu at 2008年05月30日 12:43
『怖い』と思うのは感情ではなく本能ですよね。来るべき不測の事態に備えよ、と自分に教えてくれている(警告してくれている)もの思っています。
こう思っていると少しは楽です。

高所は落ちたら命の危険がある場所であるし、権力のある人との同席は対応を誤れば社会的財産を失うことになりますよね。

ただ、あまりに恐怖が大きすぎるとすくんでしまうのには困りものです。怖くてもすくまない人間になりたいものです。
Posted by KS at 2008年05月30日 12:47
No.64 『恐怖の大切さ』で引用されている(失敗を恐れるな)には(難しい仕事は志願してもやれ)に通じる(挑戦への薦め)の意味が込められています。前提として、2度と回復不可能な状態になる究極の恐怖(死)のレベルではない、そこから何かを学ぶことで次に生かせる(恐れ)の意味である点です。
貴論旨である恐れに耐えてこそ、失敗しても次に生かせるのです。死の恐怖は、絶対的に自己復活が絶対に不可能なもので、その瞬間、自己を離れた、第3者的なあるいは客観的な視点で状況を把握することで生じる根源的な心象であります。
Posted by 中村信雄 at 2008年05月30日 13:16
毎回楽しく拝見させていただいています、、失礼なたとえですが「悲しみが多いほど、人には優しくできるのだから」と言いますが、人の痛みが解ると相手の気持ちが良く理解できるようになります。今、ささやかですがボランテア活動をしていますがどんどんのめりこみ、人からなんでそんなに一生懸命やるの、と言われますが、人の為にやっているのでなく、自分自身の成長の為、やらせてもらっている。少しでも自分自身でこんな事でもやっている事で、感謝してもらえる嬉しさ、何者にも変えがたいのですそれと同じような感じかもしれないと思いました
Posted by 村川國忠 at 2008年05月30日 13:55
大変ご無沙汰しております。岡本でございます。
失敗を恐れず、何事にもチャレンジしそして自身の価値を高める。----->私も管理職の一歩手前までは、部下や同僚に良く話しをしていたことを思い出します。今考えれば、励ましではなく無責任な言葉だとつくづく感じます。
又、死を直面した後の人生感、この変化も良く理解できます。
私自身も同じ経験をしました。
人間は生かされているのだと気づくと目の前が開き・そして今この生かされている日々をどうするか毎日が楽しくてなりません。時々、病の後遺症で悩まされますが、それでも目的意識(生かされているからには何かできる)がハッキリしていることが自身と私を支えてくれた人々に合掌の思いで過ごす日々がうれしいのです。恐怖は大切です。でも、恐怖の実態が見えてくると案外気が楽になることもあります。
でも、いろいろと存在する恐怖は中々見出せません。やはり、日頃の存在意義が大切なのでしょうね
Posted by 岡本義次 at 2008年05月30日 15:54
 時には恐怖心を持って物事に真剣に対処することも必要なのかもしれませんが、常に恐怖心を持って生きてなんていられません。
 20年以上前になりますが、私と家族が乗ったYS−11機が大きく揺れながら吹雪の千歳空港に着陸するところで、窓から滑走路のランプを横目で見る状態になり、「着いたな」と思った瞬間から急に加速上昇してタッチアンドゴーの状態になりました。 さすがの私も驚いてまだ小さな子供達を抱き寄せました。 数分後に無事にやり直して着陸出来ましたが、墜落した場合に備えて子供達を抱きかかえたまま身構えていましたが、恐怖心はありませんでした。  
 それから、合格不合格の通知が恐怖であるとは、楽天家の私には理解出来ません。 不合格の通知は確かに悲しいでしょうが、合格であればHappyなのですから、楽しみでもある訳で、期待と不安の両方を込めた気持ちであるはずです。
 「失敗を恐れるな!」という言葉が無責任な言葉であるとの宋さんのご指摘ですが、たとえ失敗しても取り返すことが出来ると思っているから言うのであって、失敗したら本当に困る場合には言わない言葉です。 ですから、無責任な言葉ではなく、愛情を込めた言葉であると理解していただきたいものです。 そうじゃない無責任な人間(上司)もたまにはいるでしょうけど。
 「人間万事塞翁が馬」という中国の故事から来た諺がありますよね。 人生には良いことや悪いことが繰り返し起こってきます。 反省も無く精進も無くダラダラと生きている私のような者もどうかと思いますが、かと言ってすべてに過敏に反応して一喜一憂することはどうなのでしょうか? 恐れや憂いは早く忘れて、
Posted by けいちゃん at 2008年05月30日 17:57
宋さん、
本件で二つ目の投稿となる点ならびに、同時配信された陳 建さんコラムへの投稿である点、お許しください。

陳さん、
五回配信(執筆)お疲れ様でした。
わざわざ筆を取ったのは、今回で連載終了という節目にあたっての執筆への感謝・御礼とともに・・・宋さんのコラム同様にとてもわかりやすい簡潔な文章だった点があります。
(中国人として日本語を習ったからこそ、基本に忠実な、平易な表現方法、簡潔で第三者的な文章が書けるのではないか・・・というのが私なりの分析です)

在日外国人としての5年後のご自分の身の振り方・・・というテーマ選定も最終回に相応しいと思いますし、そういったお立場でそれぞれの国を”客観視できる”というのは、陳さん(もちろん宋さんも)ならではのメリットです。

日本では華僑という言葉があります。ご存知でしょうが、自国(中国)を離れて、外国に根を張って、その国の文化や風習や商習慣などに溶け込みながら、自立していらっしゃる中国人の方々のことを総称して華僑と呼んでいます。どこの国に行っても”チャイナ・タウン”の無い国は無い・・・と言われるほど、中国の方々は遠い昔からさまざまな外国に行かれています。それは単純に、経済的な理由で国外で富を稼ぐという側面もあるでしょうが、結果的にはそれが文化の交流を生み、また個人レベルでの友情や婚姻や、ビジネスレベルでの協業を作ってきたのだと思います。

日本に根を張る事が陳さんにとって良い結果となるかは私にはお約束できませんが、日本と中国は、広い意味では同じ”漢字文化圏”ですし、文化的な面でも古来より非常に交流の深い国だと、私個人では考えます。過去には両国民の感情を逆撫でするような悲しい事件もありましたが、各個人同士が交流していけば、日中戦争のような最悪な事態を今後回避することができるための、原動力になるだろうと私は思っています。政治家や国家主席が判断する部分はもちろんありますが、大前提としてお互いの国や国民の、本当の実態や細かい情報をきちんと両国民が共有できていれば、誤解とか見栄とか、下らない理由のために、”見切り発車で戦争を引き起こしてしまう”ような悲しい事態への抑止力になる、という考え方です。

陳さんと同じく私にも妻と子供がおります。父親であるという点では、国境を越えた共有できる価値観や想いもきっとあることでしょう。5年後では無く、自分達の子供が活躍する未来のためにも、より良い”中日関係”を築いていければと思っています。

まとまりの無い文章になってしまいましたが、これからも日本で、ソフトブレーン社で頑張ってください!
Posted by IT営業 at 2008年05月30日 17:59
いつも心を打つ内容で共鳴することばかりです。いい勉強をさせていただいています。

コメントではないのですが、ご連絡の手段がありませんのでここに記載します。
上記のEメールアドレスが変更になります。
新Eメールアドレスは
 tvkw41670@gaia.eonet.ne.jp
ですので引き続きメルマガの配信をお願いします。
Posted by 山本和生 at 2008年05月30日 18:45
上海に販売会社つくってから、日本との比較の中で、中国の歴史文化、人々の考え方を理解しようと努めています。宋さんの議論は、途中からですが、いつも興味深く読ませて貰っていました。終了するのはとても残念です。
改めて最初から呼んでみたいのですが、どこかから入手できますでしょうか?
Posted by 佐藤文男 at 2008年05月30日 18:48
昨年の9月に富士山に一人で登ったのですが、私は恐怖を感じました。
一本道でチェーンの柵まで付いているので、危険な事など全く無い登山にも関わらず、です。
登り慣れている人からすれば、お笑いものなのかも知れませんが、私は本当に怖かった。
八合目を出たのが夜中の3時。
外は夜半から細かい雨が強い風と共に吹き付けていました。
歩いていても目の前しか見えません。
後ろを振り返っても同じ。
まるで白い空間を彷徨っている様でした。
凍るような寒さ、たった一人の孤独感、視界の利かない恐怖。
登っている時は二度と登らないぞと思ったのですが、またあの恐怖を味わいたいと思っているのは不思議なものです。
恐らく恐怖が本物では無かったと言う証拠でしょう。
Posted by 黒龍江中医薬科大学日本校専科学生K at 2008年05月30日 19:56
コメントを書かせて頂くのは初めてですが、宋さんのメルマガを、いつも楽しみに読んでおります。
いつも勉強になる、読む度に学びになると思っていましたが、今回のメルマガの最後の言葉、この言葉に出会えて本当に良かったと思います。
恐れないことではなく、恐れを心に持ちながらも、その恐れに耐えるということ・・・。この言葉のおかげで、時に心に湧き上がる恐怖に、より上手く、対処出来る気がします。
宋さん、これからも、素敵な言葉を、送り続けて下さい。いつも、本当に素敵な言葉の数々を、ありがとうございます。
Posted by ATIO at 2008年05月30日 22:06
はじめまして。メルマガを毎回楽しみにしているものの一人です。
今回のテーマは自分がいつも考えていることでしたので、ぜひ書き込ませていただきたいと思いました。


宋様がお使いになられた「恐怖」という言葉ですが、自分は「ストレス」と置き換えて物を考えていました。
人間としての懐の広さ、人への優しさというのは、その人が経験し、克服してきた「ストレス」に比例すると考えています。

なぜこのようなことを考えるようになったのかというと、自分の子供へのいじめがきっかけでした。小学校1年生の子供は、近所に住む同級生からいじめを受け、金品を脅し取られ、学校に行きたくないと泣いたこともありました。

親として相手が許せなかった半面、同じようなことはこれからずっと、形を変え場所を変え、社会人になっても続いていくことであります。まだ子供は小さく、自分でストレスをコントロールすることは困難ですが、いつかは自分の力で様々なストレスを乗り越える心の強さを持たなくてはいけません。親として子供を守りつつも、このストレスを乗り越えることによって、強く、また優しく育ってほしいと考えています。

ITの進歩により、知りたくない事でも容易に知ってしまう時代でもあります。気づかなければなんでもない事なのに、例えばブログに悪口を書かれただけで、それを気に病んで命を絶ってしまう人のなんと多いことでしょう。一見普通に見える大人でさえ、ストレスや恐怖に押しつぶされてしまうことがあるのですから、ましてや子供がそれに立ち向かうのはすごく大変です。
しかしながら、また一方でストレスから隔離して育てていくのも無理な話です。当然ながら、いずれは社会と関わって生きていかなくてはいけません。従って、適度なストレス、恐怖を経験していくことにより人間力を高めていくことが、幸せに生きていく上でとても重要と考える自分としては、子供と子供にかかるストレスのバランスをどのように考えればよいか、日々頭を悩ませながら過ごしています。

ストレスなく生活させてあげたい。
でも、ストレスに強い人間になってほしい。

どちらも、親としての偽らざる気持ちです。
宋様も以前、メルマガで子育てを考えるという趣旨のお話をされていましたが、いかがお考えですか?
Posted by とも at 2008年06月02日 11:55
今回コラムの最後にありました「真剣度=恐怖の大きさ」は非常に説得力がありました。
自分自身の活動を振り返ると、公私共に、確かに当てはまる事が多かった印象が残ります。
しかし、自分自身の真剣度だけではないこともあるのではないでしょうか?むしろ、自分自身の存在価値が否定される事と捉えた方が納得感が高い気がしました。人間は集団の一員として価値観が否定される事に極端に弱いモノではないかと見ています。
自我を貫く人も一部おりますが、根底には心の支えが必ずいるはずですし、そのような人がいるからこそ自我を貫けるのではないかと考えています。
今回のコラムで取り上げた「恐怖」ですが、今一度深掘りしたコラムで再考して頂ければと存じます。
とても興味深いテーマでしたので、このまま終わらすのも勿体無い気がします。
Posted by 加藤晴彦 at 2008年06月08日 23:28
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