恐怖にはよいイメージがありません。恐怖を好む人もいません。しかし、恐怖でないと分からないことがあり、恐怖を通じないと得られない人間性があります。
私は高所が苦手です。危ない車よりも安全な飛行機を嫌う、理屈抜きの高所恐怖症です。飛行機が揺れるとすぐこのまま落下するのではと心配してしまいます。
自分で会社を創業して5年たった頃、出張のため乗っていた飛行機が強風に遭いました。もともと飛行機の揺れを嫌う私ですが、経験したことのない激しい揺れに動揺し、遺書を準備しようかと思いました。
周りの人は誰もそんなことをしていないのをみて我慢しましたが、急にある思いがこみ上げてきました。「遅刻した社員にあんなにきつく言わなければ良かった」とか「彼女と喧嘩したときに自分はもっと寛容になるべきだった」とか、とにかく自分の思いやりの欠如を後悔しました。そしてひそかに自分に言い聞かせました。「無事に降りられたら、身の回りの人々にもっと優しくする」と。
もちろん、飛行機は乱気流を通過し、またいつもの静かな機内に戻りましたが、私はその時なぜ自分があんな反省したかについて自問しました。私は生き延びるという交換条件と引き換えに反省した訳ではありませんでした。ただ恐怖に直面したとき、自分は自然にやさしくなれたのです。
よく死の危機を経験した人は、その後人生観が変わると聞きますが、なんとなく分かります。われわれ人間は思うほど理性的ではないのです。あれこれの理屈は、教わっても心には響いていないケースがほとんどです。本当に心に響く瞬間とは、意外と恐怖を感じた時です。
特定の組織や個人が他人を恐怖に陥れることによって他人を服従させようとする行為は恐怖政治とテロといい、許されませんが、人生経験としての病気、事故、災害による恐怖経験は決して無駄にならないと思います。
また、恐怖はいろいろな次元があります。取引の損失も恐怖ですし、長い間目指した昇進が絶たれたことも恐怖です。合格の可否を知らせる封筒を開けるのも恐怖のはずです。恐怖はその取り組みの真剣さとも比例するものです。真剣ではない人にとっては、その分恐怖も少ないはずです。
望んでいる訳ではないのですが、どんな恐怖も人間の心を広げてくれる効果があります。「失敗を恐れるな」という説教がありますが、これほど無責任な説教はないと思います。失敗は恐れるべきです。失敗は恐怖です。われわれがその恐怖を通じてこそ知恵を学び、謙虚、且つ強靭な心を得るのです。
失敗を恐れないのではなく、失敗を恐れながらその恐れに耐えるのです。
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ところが意識が動きを止めた時、別の自分が出現します。恐怖に限らず、心の底から笑った時、瞑想をしている時、などに現れる、意識としての自分が驚く存在が自分の中には、います。
それがなんであるかは、ここでは議論しません。が、宋さんが書かれている「自然に優しくなれた」自分はあきらかに宋さんの一部なのです。
そして大事なことは、理由が言葉にならないことです。理性の塊のような宋さんですら、言葉にならないのです。
自分の意識外にいる自分の声を聞くことは、私は大事だと思っています。
共感致しました。私事、昇進での躓き、病気、等47歳にしていくつかの災難に見舞われておりますが、自分にとっては将来に向けての「恐怖」でありますが、冷静に考えれば、自業自得の産物でもあるのです。やはり、「耐える」力が最後には必要なんですね。一朝一夕に片付いていきませんが、何とか寡黙に耐えていければ、それが力となるかもしれないとも思いました。
今後も宋さんの「智恵袋」期待しております。ありがとうございました。
でも、それは先生のおっしゃる様に恐怖というものを心底感じてこそ、その本質を知り抜いた賜物だと思います。
ビジネスにおいても様々なリスクが伴い、それも言わば経営者にとっては、恐怖に繋がるものです。でもその恐怖を感じる感覚が無ければ、リスクマネジメントもせず、無謀な経営に走ってしまいます。私の好きな経営の座右の銘に「悲観的に考え、大胆に行動する」という言葉があります。経営判断する時は、いつも最悪の状況を想定し、そのリスクマネジメントを施した上で、敢えて、そのリスクを冒して勝負に出ると言う事です。でも、その結果、得られる事とその代償があまりにも高くつく場合は、その勝負を捨てるべき状況も当然あります。その判断のバロメータこそ、恐怖心だと思います。でも、事前に手を打てる事を全てやり尽くし、その恐怖を克服して天命を待つという、そうした覚悟を決めて物事にあたるという事も人生にはとても大切な事だと思います。
「真剣ではない人にとっては、その分恐怖も少ないはずです。」も思い当たります。反面教師にしています。
陳建さんのコメントでお父様が60歳を超えてビジネスをする、その気迫は、私を含め日本人に足りないものだと、心に響きました。今日が一番若い日、まだまだ冒険できますね。
いつも楽しく拝読しています。
お忙しい中執筆活動お疲れ様です。
いやー、今回も良かったです!
(ありふれた表現ですが、そうとしか書けません)
やっぱり最終段落での”落ち”が抜群に(日本人以上に???)うまいですね。
”終わり良ければ全て良し”というコトワザ(慣用句)があります。何事も最後の部分での印象が、全体を支配してしまう事が多い・・・例え、前半や中盤が悪かろうとも・・・といった皮肉なニュアンスも若干込められていますが。そういった意味では、このコトワザは宋さんの記事には当てはまりませんね(笑)
さて、私の職務の一部である新人・中堅社員への研修の中から一つご紹介します。”置き換え(逆転)話法”と言います。コールセンターで新人のコール・テイカー(正確にはOUTBOUND(こちらからの外線発信)がメインのため”テイカー(受け手)では無いのですが)に対し、ベーシック研修の最初で教えます。
一言で言えば、”終わりに、良い事が来るように、話しの順番を逆転させるだけ”です。
例文:
良い例:
宋さんって、日本人では無いですが、日本人よりわかりやすい日本語の文章を書かれるんですね。
悪い例:
宋さんって、日本人よりわかりやすい日本語の文章を書かれるんですが、日本人では無いんですね。
この二例を読み返してみると、読後の印象がそれぞれ異なっているのに気づかれると思います。
英語は、結論が先に来て、修飾句が後に来るセンテンス構造かと思います。しかし日本語は(中国語はどうなのでしょうか?存じ上げません)どちらかと言えば、結論を末尾に持ってくる傾向があります。そのために、文章を最後まで読まないと、肯定文なのか否定文なのか、賛成なのか反対なのか、わからない事が多いです。
脱線してしまいましたが・・・、ご紹介した”逆転話法”は、ビジネスでも、家族・友人・恋人などでも使えます。自分の相手に伝えたい点を、効果的にアピールする方法の一つとして覚えて、使って損は無いかと思いますので、この場でご紹介させていただきました。
私も事故で死にかけた経験があります。失業して収入が途絶えた事もありますし、人生でさまざまな失敗を味わって参りました。
”どんな恐怖も人間の心を広げてくれる効果があります。”名文ですね。いや本当に同感出来ますし、この一言で私の人生を全て言い表していただいた・・・少し大袈裟でしょうか(笑)・・・そんな気がしています。
そろそろ日本は梅雨に入ります。この季節は一日の寒暖差があり風邪を引きやすい時期です。ご自愛いただき、公演・執筆活動されますようお祈りしています。次回も楽しみです。
しかし、それにも限界があると思います。耐え難い恐怖を体験すると、それがトラウマとなって精神的な障害になるし、治療も必要に
なります。
それゆえ宋さんが飛行機を避ける様に、多くの人は、怖い思いをする事はなるべく回避します。失敗を怖れるのも似た様なもので、そのために一生懸命努力する。その分、失敗した時の挫折感や失望感は大きく「人事を尽くして天命を待つ」といった心境には、そうそうはなれないと思いますが、どうでしょうか。
時間があるときに是非お目と押し下さい。
合理的期待形成仮説と市場原理主義はいつでも誤りを犯します。
久しぶりにコメントをお送り致します。
今回の記事はとても大事な事を良くぞ分析されたなと関心致しました。
私が最近よく思う事は、心の病気の事です。最近でこそネットやマスメディアで取り上げられるようになり、社会での認知度も上がってきていますが、相変わらず会社の中ではそのような症状の人に「怠け病だ!」とか、「やる気が無いからだ!」など心ない事を叫ぶ管理職が沢山おります。今や心の病は風邪を引く事と同じくらい罹患する可能性が高まっており、その心ない管理職もいつ自分がかかってしまうかわからないのに、そのような人を見るにつけ「経験しないとわからないのだな」と思ってしまいます。「バカは死ななきゃ治らない」ではありませんが、心の病は叱咤激励は最悪の逆効果、相手が自殺でもすれば貴方のせいだよと言いたくなります。
宋さんの記事の最後にありますように、人の上に立つ人は、相手の恐怖を理解しそれを通じて知恵を学び、謙虚、且つ強靭な心を得るよう努力してもらいたいものです。
現在、「リスクマネジメント学」を学びながら、コメントを差し上げました。
物理的な危険には、「命の大切さ」を訴える現代社会ながら、その他リスクに「失敗を恐れるな」と無責任な大人が、本当は安全なところから言っている場合が多いのを子どもたちは知っているように感じました。
知見、体験すべての経験が、私の場合、謙虚さをもたらしてもらえます。
大事にしないといけないのですが、まだ「人間勉強中」です(笑)
最近の「無謀」を見て考えたことをコメントされていたので、反応してみました。
でも知恵は「恐怖」では無く、
苦難を乗り越えたとき智恵を学ぶと思います。
言葉の違いかもしれませんが、本当の
「恐怖」は生易しいものではありません。
私は、今、精神疾患と闘っています。
世の中的には、うつ病のようです。
欝から来る恐怖は、生易しいものではありません。
この恐怖は、絶対に体験しないと分りません。
また、事故などでトラウマになるような恐怖もあります。
それらの恐怖は、心身を破壊してしまいます。なにかの創造はしないと思います。
また、一人では決して耐えられません。
しかし、人間がその恐怖や苦難をどのように闘うかどのように乗り越えるかで大きく変化する成長するのではないでしょうか?
つまり、苦難を乗り越える勇気が智恵になるのだと私は思います。
恐れを勇気に返るには、慈悲と哲学が必要です。
失敗を恐れるなとは、
失敗を恐れずに勇気を持てと励ましてあげるための言葉ではないでしょうか?
励ましは 、万の力と書きます。
励まされた人は、百万倍の力と勇気を持って苦難を乗り越える力を得るのだと思います。
恐怖でおののいているひとを、周りの人が励ますことが大切であると「失敗は恐れるな」との言葉の中に含まれているのではないでしょうか?
つまり、失敗を恐れている本人ではなくて、同志や地域の人たちに宛てた言葉ではないでしょうか?
こう思っていると少しは楽です。
高所は落ちたら命の危険がある場所であるし、権力のある人との同席は対応を誤れば社会的財産を失うことになりますよね。
ただ、あまりに恐怖が大きすぎるとすくんでしまうのには困りものです。怖くてもすくまない人間になりたいものです。
貴論旨である恐れに耐えてこそ、失敗しても次に生かせるのです。死の恐怖は、絶対的に自己復活が絶対に不可能なもので、その瞬間、自己を離れた、第3者的なあるいは客観的な視点で状況を把握することで生じる根源的な心象であります。
失敗を恐れず、何事にもチャレンジしそして自身の価値を高める。----->私も管理職の一歩手前までは、部下や同僚に良く話しをしていたことを思い出します。今考えれば、励ましではなく無責任な言葉だとつくづく感じます。
又、死を直面した後の人生感、この変化も良く理解できます。
私自身も同じ経験をしました。
人間は生かされているのだと気づくと目の前が開き・そして今この生かされている日々をどうするか毎日が楽しくてなりません。時々、病の後遺症で悩まされますが、それでも目的意識(生かされているからには何かできる)がハッキリしていることが自身と私を支えてくれた人々に合掌の思いで過ごす日々がうれしいのです。恐怖は大切です。でも、恐怖の実態が見えてくると案外気が楽になることもあります。
でも、いろいろと存在する恐怖は中々見出せません。やはり、日頃の存在意義が大切なのでしょうね
20年以上前になりますが、私と家族が乗ったYS−11機が大きく揺れながら吹雪の千歳空港に着陸するところで、窓から滑走路のランプを横目で見る状態になり、「着いたな」と思った瞬間から急に加速上昇してタッチアンドゴーの状態になりました。 さすがの私も驚いてまだ小さな子供達を抱き寄せました。 数分後に無事にやり直して着陸出来ましたが、墜落した場合に備えて子供達を抱きかかえたまま身構えていましたが、恐怖心はありませんでした。
それから、合格不合格の通知が恐怖であるとは、楽天家の私には理解出来ません。 不合格の通知は確かに悲しいでしょうが、合格であればHappyなのですから、楽しみでもある訳で、期待と不安の両方を込めた気持ちであるはずです。
「失敗を恐れるな!」という言葉が無責任な言葉であるとの宋さんのご指摘ですが、たとえ失敗しても取り返すことが出来ると思っているから言うのであって、失敗したら本当に困る場合には言わない言葉です。 ですから、無責任な言葉ではなく、愛情を込めた言葉であると理解していただきたいものです。 そうじゃない無責任な人間(上司)もたまにはいるでしょうけど。
「人間万事塞翁が馬」という中国の故事から来た諺がありますよね。 人生には良いことや悪いことが繰り返し起こってきます。 反省も無く精進も無くダラダラと生きている私のような者もどうかと思いますが、かと言ってすべてに過敏に反応して一喜一憂することはどうなのでしょうか? 恐れや憂いは早く忘れて、
本件で二つ目の投稿となる点ならびに、同時配信された陳 建さんコラムへの投稿である点、お許しください。
陳さん、
五回配信(執筆)お疲れ様でした。
わざわざ筆を取ったのは、今回で連載終了という節目にあたっての執筆への感謝・御礼とともに・・・宋さんのコラム同様にとてもわかりやすい簡潔な文章だった点があります。
(中国人として日本語を習ったからこそ、基本に忠実な、平易な表現方法、簡潔で第三者的な文章が書けるのではないか・・・というのが私なりの分析です)
在日外国人としての5年後のご自分の身の振り方・・・というテーマ選定も最終回に相応しいと思いますし、そういったお立場でそれぞれの国を”客観視できる”というのは、陳さん(もちろん宋さんも)ならではのメリットです。
日本では華僑という言葉があります。ご存知でしょうが、自国(中国)を離れて、外国に根を張って、その国の文化や風習や商習慣などに溶け込みながら、自立していらっしゃる中国人の方々のことを総称して華僑と呼んでいます。どこの国に行っても”チャイナ・タウン”の無い国は無い・・・と言われるほど、中国の方々は遠い昔からさまざまな外国に行かれています。それは単純に、経済的な理由で国外で富を稼ぐという側面もあるでしょうが、結果的にはそれが文化の交流を生み、また個人レベルでの友情や婚姻や、ビジネスレベルでの協業を作ってきたのだと思います。
日本に根を張る事が陳さんにとって良い結果となるかは私にはお約束できませんが、日本と中国は、広い意味では同じ”漢字文化圏”ですし、文化的な面でも古来より非常に交流の深い国だと、私個人では考えます。過去には両国民の感情を逆撫でするような悲しい事件もありましたが、各個人同士が交流していけば、日中戦争のような最悪な事態を今後回避することができるための、原動力になるだろうと私は思っています。政治家や国家主席が判断する部分はもちろんありますが、大前提としてお互いの国や国民の、本当の実態や細かい情報をきちんと両国民が共有できていれば、誤解とか見栄とか、下らない理由のために、”見切り発車で戦争を引き起こしてしまう”ような悲しい事態への抑止力になる、という考え方です。
陳さんと同じく私にも妻と子供がおります。父親であるという点では、国境を越えた共有できる価値観や想いもきっとあることでしょう。5年後では無く、自分達の子供が活躍する未来のためにも、より良い”中日関係”を築いていければと思っています。
まとまりの無い文章になってしまいましたが、これからも日本で、ソフトブレーン社で頑張ってください!
コメントではないのですが、ご連絡の手段がありませんのでここに記載します。
上記のEメールアドレスが変更になります。
新Eメールアドレスは
tvkw41670@gaia.eonet.ne.jp
ですので引き続きメルマガの配信をお願いします。
改めて最初から呼んでみたいのですが、どこかから入手できますでしょうか?
一本道でチェーンの柵まで付いているので、危険な事など全く無い登山にも関わらず、です。
登り慣れている人からすれば、お笑いものなのかも知れませんが、私は本当に怖かった。
八合目を出たのが夜中の3時。
外は夜半から細かい雨が強い風と共に吹き付けていました。
歩いていても目の前しか見えません。
後ろを振り返っても同じ。
まるで白い空間を彷徨っている様でした。
凍るような寒さ、たった一人の孤独感、視界の利かない恐怖。
登っている時は二度と登らないぞと思ったのですが、またあの恐怖を味わいたいと思っているのは不思議なものです。
恐らく恐怖が本物では無かったと言う証拠でしょう。
いつも勉強になる、読む度に学びになると思っていましたが、今回のメルマガの最後の言葉、この言葉に出会えて本当に良かったと思います。
恐れないことではなく、恐れを心に持ちながらも、その恐れに耐えるということ・・・。この言葉のおかげで、時に心に湧き上がる恐怖に、より上手く、対処出来る気がします。
宋さん、これからも、素敵な言葉を、送り続けて下さい。いつも、本当に素敵な言葉の数々を、ありがとうございます。
今回のテーマは自分がいつも考えていることでしたので、ぜひ書き込ませていただきたいと思いました。
宋様がお使いになられた「恐怖」という言葉ですが、自分は「ストレス」と置き換えて物を考えていました。
人間としての懐の広さ、人への優しさというのは、その人が経験し、克服してきた「ストレス」に比例すると考えています。
なぜこのようなことを考えるようになったのかというと、自分の子供へのいじめがきっかけでした。小学校1年生の子供は、近所に住む同級生からいじめを受け、金品を脅し取られ、学校に行きたくないと泣いたこともありました。
親として相手が許せなかった半面、同じようなことはこれからずっと、形を変え場所を変え、社会人になっても続いていくことであります。まだ子供は小さく、自分でストレスをコントロールすることは困難ですが、いつかは自分の力で様々なストレスを乗り越える心の強さを持たなくてはいけません。親として子供を守りつつも、このストレスを乗り越えることによって、強く、また優しく育ってほしいと考えています。
ITの進歩により、知りたくない事でも容易に知ってしまう時代でもあります。気づかなければなんでもない事なのに、例えばブログに悪口を書かれただけで、それを気に病んで命を絶ってしまう人のなんと多いことでしょう。一見普通に見える大人でさえ、ストレスや恐怖に押しつぶされてしまうことがあるのですから、ましてや子供がそれに立ち向かうのはすごく大変です。
しかしながら、また一方でストレスから隔離して育てていくのも無理な話です。当然ながら、いずれは社会と関わって生きていかなくてはいけません。従って、適度なストレス、恐怖を経験していくことにより人間力を高めていくことが、幸せに生きていく上でとても重要と考える自分としては、子供と子供にかかるストレスのバランスをどのように考えればよいか、日々頭を悩ませながら過ごしています。
ストレスなく生活させてあげたい。
でも、ストレスに強い人間になってほしい。
どちらも、親としての偽らざる気持ちです。
宋様も以前、メルマガで子育てを考えるという趣旨のお話をされていましたが、いかがお考えですか?
自分自身の活動を振り返ると、公私共に、確かに当てはまる事が多かった印象が残ります。
しかし、自分自身の真剣度だけではないこともあるのではないでしょうか?むしろ、自分自身の存在価値が否定される事と捉えた方が納得感が高い気がしました。人間は集団の一員として価値観が否定される事に極端に弱いモノではないかと見ています。
自我を貫く人も一部おりますが、根底には心の支えが必ずいるはずですし、そのような人がいるからこそ自我を貫けるのではないかと考えています。
今回のコラムで取り上げた「恐怖」ですが、今一度深掘りしたコラムで再考して頂ければと存じます。
とても興味深いテーマでしたので、このまま終わらすのも勿体無い気がします。