コンテンツ制作会社の友人によると、いま、一つのプロジェクトにかかる時間は、10年前のほぼ五分の一になったといいます。IT技術のおかげで意見集約とデータ共有がリアルタイムにできるようになったからです。
「じゃ、仕事が楽になったの?」という私の質問に彼は「むしろ忙しくなったよ」と答えました。空いた時間に「品質向上」との名目で仕事を増やしてきたそうです。
私が知っている限り、この会社のコンテンツの評判は、10年前と比べて少しも良くなっていませんし、顧客数も減っています。外部にいる人の目には、この会社は技術進化という果実を無駄にしたうえ、働く時間を増やし、結果を縮め、いわゆる三重の無駄を起こしているのです。
この会社で起きていることは決して稀なケースではありません。よく観察してみると多くの組織に同じような無駄が起きています。
この無駄の原因は勤勉さの欠如ではなく思考の停滞です。思考の停滞こそ、変化への対応力を弱め、改革の勇気を削り、働いても報われない現象をもたらします。
教育の問題の一つをとってみても政府の責任とか、日教組のせいとかという議論がよく聞こえますが、お父さん達の「勤勉」による子供と過ごす時間の少なさは最も深刻な教育問題でしょう。
財政赤字、少子化、東京への一極集中。社会の停滞を招く構造問題にはすべての人が関わっているのに「まじめに働いている」ことにあぐらをかき、問題の深刻化に加担しているのです。
信じたいことを信じ、信じたくないものを無視する。親しい相手を讃え、厄介な相手を貶す。得意な分野にいつまでも拘り、不得意な分野をますます遠ざける・・・人間である以上、このような思考の停滞リスクは常に我々の中に潜んでいます。
自分の内側を直視せず、全員が「停滞は自分以外の誰かのせいだ」と考える時に、停滞は確実に起きます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/79062786
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック
http://blog.seesaa.jp/tb/79062786
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック












元来、日本では取り敢えず、その場しのぎ、その場限りと言ったビジネス形態、文化があります。モデルチェンジを多くして最終の到達点は確かに良いものも生まれます。計画は時間に間に合わせるために行われる結果、地に足の着かないプランが横行します。消費者である大衆も同じ文化の人間ですから何の疑問も感じません。しかしこの流れは少しづつ変化しているようにも見えます。これを支えるのは、結局は社会的富の蓄積ではないでしょうか。余裕のある観点から商品を選ぶとき、含蓄のあるモノが選ばれます。これは逆にビジネスモデルを無駄を排除する方向に変えていかなければならない時期だと思います。
今年も宋さんのコメントで刺激をもらっていきます。
私は部下の若者に常々同じようなことをいいます。「勤勉であることで給与が高くなるのなら、ファーストフードで冬も半袖で働いている店員は高級取りじゃなきゃいけないハズだ。勤続年数が長けりゃ給料が高くなるのなら、赤字会社で経理を一生続けてればいいハズだ。そうはなっていない。では、芸能人と経営者の給料はなぜ高いのか?」
そして、技術一辺倒の若者にはこういってます。「オマエに客は最高、いくら払うと思う?月に1000万円払うかい?でも、その技術を基に1億や2億の案件を成功裏に終わらせられれば1000万円の利益を得ることは簡単なのだよ。技術だけ見たい、人の世話はイヤだ、全体を見たくないというのなら現場で安い給料で歯車でいるしかないのがビジネスなんだよ。」
自分で勝手に甘い採点で、自分の価値を妄想していることが多い今の若者です。大人もヘンに媚びて、誰も露骨に世の中の仕組みを教えてあげない。それは、先輩として義務を果たしていないと思うのでイヤな顔されますが、あえていってます。100人に1人でも目を覚ましてくれることを願って。
人間なかなか視点を変えることや行動パターンを変えることは難しいようですが、変化やニーズに対応していかないと停滞どころか取り残されますね。
有難うございます。
堀口
批判もよい、評論もよい。しかし、自分の意見をもってそれと対比しながら・・。そして自分を変え自ら行動を起こすことを提案するあなたの姿勢に賛同します。紹介された他の二つのコラムも拝見しました。いずれも同感できます。
もう日本は沈没していくのだ・・と団塊世代の私は悲壮の真っ只中に自分を沈めていました。
コラムを拝見して前回と同じように涙があふれてきました。
雨の後に晴天が来る・・日本中が甘えの構造になってしまったこの国に果たして晴天がくるのか甚だ疑問ですが、取り合えず信じてみることにします。
収入差はあって当たり前だと思います。
共産国家でも上部層は贅沢極まりない生活をしているようです。
ガイアの夜明けなど見ますと、地方でも工夫しているところは前進しているようです。
地方に税金をばらまいても何も解決できないように思います。
学校では、出された宿題をマジメにするとか、欠席がないとかが、本来の成績とは別に評価に加えられて内申書として入試の評価対象とされていたりします。定期テストにしても、授業の内容をそのまま書き写すことが良しとされていたりして、実際の理解度とは別のものが求められていたりします。
会社に入ってからも、言われたことを黙々とこなす、膨大な書類を作成してどれだけの仕事量をこなしているかで、その人が「どれだけ仕事をしているのか」を判断するような業務管理を行っている会社が多いのではないでしょうか。
これらに共通しているのは、「何も考えずに与えられた課題に黙々と努力をする」人間を育成するということです。ここには、何が現実であるかを見つめる必要はなく、誰かに与えられた課題や過去の実績に忠実に物事を進めていくことだけが求められます。
ここには進歩や革新のように前進する要素はありません。その場にあることをより正確に繰り返すだけなのです。だから、停滞する。
現実がどうなっているのかに忠実になって、課題は何かを自ら抽出すると、過去に経験のない課題が浮かびあがったりします。抵抗はあってもこれを事実として受け止める勇気が、宋さんの言われる「改革の勇気」なのだと思います。
テレビや新聞のコメントにしても、実はあまり考えていないような表面的なものが氾濫していたりします。奥深く議論して理論的に現実を分析することなく、感覚的かつ感情的な議論ばかりで誹謗・中傷に近いコメントも散見され、世論に流れたものばかりでコメント自体がなんらかの付加価値があるとは思えないような状態です。この状況を容認してしまっているので、社会生活の中でも同じような現象が起こっているのではないでしょうか。
今、アメリカでは大統領選の最中ですが、コメンテーターの議論の質の違いには驚くものがあります。それぞれの視点での現実から、様々な分析と意見が出て来ています。そこには皆に揃えてマジメであることでなく、独自の付加価値を与える発言をする勇気と能力を評価する風土が見て取れます。
「停滞が確実に起きる時」何の停滞かなと思いましたが、最後に結論がありました。つまり思考の停滞が様々な停滞を生み出していくわけですね。まったくその通りだと思います。
IT技術の進化で無駄な仕事があふれてきている事は、この10年間で非常に身に染み感じています。但しこの負の荒波に身を任せすぎると思考の停滞が始まり、何時までも帰宅できず、挙句の果てに病気になったり、過労死などと言う事も起こる訳です。
私も無駄な仕事に揉まれる時期を経験しましたが、今は自分が出来る範囲の中で仕事のスリムアップをする方法を考えるようになりました。また、そのために残業をしますが、何件も効果を得る事が出来ました。残念なのは会社からの評価が得られない事。このような会社ですから、私のグループ以外では、相変わらず毎日終電で帰る者が存在します。
私は新入社員の教育に関わる時に必ず言う事があります。それは「サラリーマンとビジネスマンの違いは何か考えよ」です。「ビジネスマンは利を得る機会を自ら作り、それを継続する。常に思考するのだ」と。
教育についても同じく思考をし続けなければ、子供は育ちません。学校は知識(勉強)や集団生活を学ぶところ。それ以外の教育は、家庭が責任を持たなければいけません。少なくとも我が家ではこれを実行し、成功しています。
何れにしても、社会の負の荒波に負けない強い精神性を持つ事が、肝心だと思っています。
私の場合、ご指摘の「思考の停滞」を度々引き起こしていました。そういうときは、「やるかやめるか」という戦略レベルの検討を避け、自分のスキルの及ぶ範囲で「いかにやるか」という戦術レベルにはまり込んでいました。目指す成果は当然得られず、小さな工夫と過剰な労力で差分をカバーしようとやっきになり、無駄に疲弊していく心と埋め尽くせない差分を「努力」という形で慰めていた哀れな情況だったと反省しています。表現は異なりますが「まじめに働いている」ことにあぐらをかいている状態だったのでしょう。
振り返ってみると一番の原因は勇気の無さでした。未知のものごとに対するリスクにおびえ、単に戦略レベルの検討を避けるだけでなく、その元になる事実にも目をつぶり歪んだ認識を持っていたことで、さらに悪い性癖が固定化したと分析しています。
宗さんは、自分の内側を直視しないことに警鐘を鳴らされており、きっと早くからご自身と向き合い、現実を平明に捉える目を持ち、やるべきことをやり、止めるべきことを止めてこられたのだと推察します。平易な文章に漂う格調の高さはそうしたところから生まれ出てくるのでしょう。
まだまだ油断すると悪癖がぶり返しますが、今回のメルマガを読んで改めて襟を正しました。大変感謝しております。ありがとうございました。
@原因は自分にある
Aでも、世の中(あるいは会社)は俺一人が頑張っても良くならないぞ
B世の中を良くするにはトップが動かないといけない
C世の中が良くないのはトップのせいだ
→そりゃ、停滞するわけです。
結局、自分がリーダーシップを取って頑張れってことでしょうね。
前にも書いたような気がしますが、再度。
他人のせいにする、というだけでは心の平穏には不足でしょうね。それに加えて『残業に逃込む』という行動も必要でしょう。責任転嫁に加えて自らは勤勉を装えば、直面する問題から安心して目をそらし続けられる。
さて、表題のブカツ、御存知でない方も多いでしょうから解説すると、中学校や高校での部活動のことです。野球、サッカー、バスケット、バレーに陸上…ブラスバンドなんてのもあったな。
ほら、記憶にないですか?非科学的で効果が無くて単に長くて苦しいだけの『練習』を、授業後、土日、夏休みに延々と続けていた、あのブカツ。
父親たちの勤勉も、元をたどればブカツに行き当たります。ここに手を加えなければ、エセ勤勉、エセ努力は根絶できません。
ブカツは実は、サービス残業にもつながっているんですよ。学校(と軍隊)には経済観念って、ゼロです。
中国にはブカツって、あるんですかね。
私は著書「価値目標思考のすすめ」で、宋さんの言われるような日本人の思考法は、「長い間の農耕生活」と「他国からの強制的な文化的支配を受けなかった」せいだと分析しています。根は深いということです。会社のトップが変革を要求しても、面従腹背となる人が多いのです。
氏がおっしゃる政府や日教組もその要素の一つでしょうが、大手メディアが権力者によって完全に支配されており、日本人の勤勉さ(視野の狭さ)を巧妙に利用しており、家庭環境の分断も意図的に行ってきたと考えています。なので、残業悪玉論は大歓迎です。
おそらく権力者の意図によって「自分で考える能力が欠如した民衆」が大量生産されてきました。日本のテレビ番組を見てください。ただの垂れ流しで人の思考力を奪う番組のオンパレードです。討論番組なども決して事の本質には触れません。上っ面を撫でて、「結局、何なの?」で終わるものばかりです。そうすることで得をする権力者がいるからです。結果として民衆を先導しやすくなります。
「雨の年なら雨を楽しもう」という記事で氏は、2008年は世界政治の多極化が次第に明確になってくる年と記述されておりますが、これについては現時点で世界の行く末を決める権力者の間でも、まだどのシナリオに持っていくかを争っているように見えます。
2008年に米国経済が凋落して、見た目には多極化されていくように見えるかも知れませんが、今も世界中で民衆の思考支配は進行中であるように見えます。中国では、私のブログの記事「新テロ特措法成立・・・今、日本の皆さんに伝えたいこと」に記述したような傾向があるのでしょうか?
今回のメルマガに関して強い興味を持ちましたので、書き込みさせていただきます。
私はこのメルマガを読み、「思考の停滞」=「行動力の欠如」という理解をしました。つまり、「だれしも初めから思考の停滞域にいる」のではなく、何らかのプロセスを経て思考が停滞するものだと考えています。それが「行動」という理解です。この大きな壁を乗り越えられないからこそ、最終的に思考が停滞してしまうのではないでしょうか。ではなぜ乗り越えられないのか。私はこう考えます。
経営者層は「リスク」を負うことを恐れ、変化を嫌い、一般サラリーマン層に関しては行動する場を与えられない。
今の中小企業、中堅企業の経営者層の方に昔を思い出してほしいです。おそらく、リスクを恐れず、チャレンジすることを忘れなかったから今があるのではないでしょうか。チャレンジすることのリスクの裏にある「責任」の大きさは昔とは比べ物にならないでしょう。けど…やっぱり新しいことするのって楽しいじゃないですか!?変化がないってつまらないじゃないですか!?
っと、最後はちょっと軽い感じになってしまいましたが、宋さんのメルマガ、また考えさせられる内容でした。ありがとうございます。
こんにちは。
思考の停滞・・・なぜ起こるのでしょうか?
そもそも、受動的性質の持ち主と能動的性質の持ち主とは圧倒的に数が違うと思うのです。少なくとも日本では。それは、教育とか、育った環境とか、今の環境、さらにそれぞれの問題によっても違ってくる、でも全体的な方向は大きなものがある、という気がします。少なくとも現代人は変化より安定、安定というよりも安穏を求めているとも思います。私は特にですが・・・。でも変化に対応しなくてはならない、そうすると能動に筋金が入るということのような気がします。
この時期の赤ちゃんとのコミュニケーションを楽しむと、それから先、子どもの心が感覚的に理解できるようになります。こどもの心が感覚的に理解できるようになると、買い物の女性の背中の赤ちゃんや街のこどもたちを見ていても楽しくなります。子育てが義務ではなくて楽しみになります。ひいては人の心や異性の心に共感できる人になれます。
お父さん方には、抱っこよりも、赤ちゃんとじぃっと長い時間目と目を合わせることを楽しんでもらいたいと思います。
日本の勤勉なお父さんは、ほんとうにもったいない時間の過ごし方をしていると常々思っている、小児科医です。
ご意見を賜れれば幸いです。
何度読んでも
リアリティがあり
身が引き締まる思いです。
真の改善について
考えてみたいです。
宋さんが中国でなく欧米出身であれば影響力が違っていたでしょう。浅はかな国です。
思考の原点から外れた思考に捉われていることってあるからです。
でも、そのことに気がついているだけ、
まだ救いがあるかも?とも思います。
世の中には耐え難いくらいの問題が起きており、そのいずれかにも自分は関係している。でも、そのことにあまりにも真剣に向き合っていると、時に、現実逃避したくなる気持ちもわからないでもないのです。
自分ひとりがいけない、という思考に陥るのは一番危険なので、自分に適した範囲やスピードでできることを積み重ねていくしかない・・・というのが、実は一番、
難しいのかもしれませんが。
誰か一人の責任でもないし、良し悪しって
個人的に判断できるものでもない。
多数決で判断することばかりがいいとも
限らないですよね。
(環境問題だって、多数決で招いた結果の
ようなものですから)
全ての人の行いが必ずしも間違っているわけではないし、人間という主格で物事を見ることが、地球全体にいいことなのかどうかもよくわからないです。
(人間が生態系を狂わせていることもあるので)
自分は間違ってない、自分は常に正しい・・・という意識で生きないようには
努めています。
なんでも責任を引き受けるつもりにもなれませんが。。。
何事にも友好的でありたいです。
自分が幸せではなければ人に手を差し延べるなんて二の次 他人事 ですよね。
思いやりが無くなって来ます。
日本・一つの国は作れないのですか?
もう、これ以上、簡単ラク と言う思考を無くして まだ畑や田んぼいっぱいある中で日本人が土を触り耕し新しい国は作れないのですか?
きっと希望者はいっぱいいると思うのに。
内容がお粗末だと思って頂いても幸いです。
素朴に単純に思っています。
失礼しました。