しかし、四、五十代の若い経営者の中に本当に良い人材が多いかというと、そうではないというのが現実です。「総理大臣も若返りできたのになぜ経済界ではできないのか」と問いかけてきた私ですが、安倍さんの辞任劇をみて心が揺れました。
「年齢で人材を差別すべきではない」。これが経営者の若年化を期待する唯一の理由でした。年を重ねただけで組織の中で偉そうにして、有能な若い人材の起用を阻害すべきではありません。
しかし、能力とは経験や知恵などの加齢によってもたらされる部分が含まれているものです。もっと若いうちに先輩と同様な経験と苦難を積んでいれば別ですが、親や先輩の保護を受けながら毛並みの良さと言葉の威勢でだけでリーダーに選ばれると本末転倒です。
やっぱり、日本には苦難を経験する若者の数が少ないのです。この苦難とは決して先輩たちが経験した戦争や貧乏とは限りません。平和で豊かな社会でも精神的に自立しようとすれば精神的苦難は避けて通れません。
小沢さんも福田さんも「自立」をキーワードにしています。私の古い読者ならばご存知だと思いますが、私も著書やコラムや講演会でずっと拘ってきたキーワードです。
言うのは簡単ですが、精神的自立はある意味において「孤立」を意味する場合が多いのです。常に現実を直視し、他人の意見に耳を傾けながらも、自分で判断し、自分で失敗の苦瓜をかみ締めなくてはなりません。それに耐えられないならば自立したとはいえません。
リーダーがどんな判断をしても必ず反対勢力が存在するし、どんな施策をとっても必ず失点がついて回ります。リーダーには勝利もなければ失敗もありません。あるのは一喜一憂を抑えての前進のみです。
今の日本社会には早いうちに若者の精神的自立を鍛える機会が少ないのです。誰のせいでもありません。社会全体が知らないうちに甘い体質になってしまいました。
小沢さんも福田さんも「自立」をキーワードにするのは、単なる偶然や真似ではなく、それが日本の皆さんがかみ締めるべきキーワードだと思うのです。
経営を引退して個人として好きな生き方をしている私に多くの日本の知人から真剣に、「もっと社会に貢献できるはず」とか、「日中の架け橋になってください」とか言われます。
実はこんなことは中国の知人からは一度も言われたことがないのです。共産党の宣伝機関は別として政治家でもない一般人にこんなことを言われてとても不思議な気分です。偽善さえ感じます。
テレビや新聞からの受け売りの国家天下論を好む人が多いのです。そんなママゴトをする前に個人のことを真剣に考えてほしいものです。日本が困っているのは正に日本という国家に依存する個人が多すぎるところです。
日本に依存しない日本人こそ日本に貢献できるのです。私は高邁なことを言わずに静かな信念を持ち、小さな行動を続ける人々を尊敬しています。
以下、JFKの演説の引用:
And also, my fellow Americans: ask not what your country
can do for you ask what you can do for your country.
My fellow citizens of the world: ask not what America will
do for you, but what together we can do for the freedom of
man.
私自身の思想の根幹が、そこにあります。
宋さんの文章を読んで、もしかすると私が考えていた「助け合い」は、ただの「責任転嫁」かもしれないと、思うようになりました。
ちゃんと立たなければ、人を助けることができない。
当たり前のことを、忘れていたようです。
国や他者になんとかしてもらおうと思うのではなく、自分でなんとかしようという気持ちを持つ人が増える事が大事ですね。
小中学生のスカウトたちはどう考えて僕の話を聞いているんだろう?
いつも、「はっとする」、あるいは「よく言ってくれた」コメント有難うございます。言われる様に、「日本には苦難を経験する若者の数が少ないのです」、は100%同意いたします。このことは経営者だけでなく、大きく言えば「日本国国民」、あるいは「人として」、苦難を経験していない為、自立できていないと思います。
豊かになり、あまりにも楽に生きてゆくことが出来過ぎます。昔から言われている「苦労はかって出てでも経験する」教育が必要です。
本当にいいコメント有難うございます。
建設関係のオーナー企業につとめています、当社も世代交代の時期にきて、現会長のご子息が専務となり、ほぼ実権を握ろうとしていますが、コラムのご多分に漏れず、経験が少ないので、良いことだとは思うのですが、経営、経済学等の本を読んで実践しようとしています。最初のうちは忠告をしていた人間もいたのですが、切れてしまうのです。左遷、減俸等あり、今はちょっとあきらめ、事業的には古参の人間が何とか凌いでいる状況なので、将来が不安ですが、今は静観、金融機関等の外部の圧力が不可欠なだと思っています。 まとまりません、この次は、もう少しまとめて、メールします。
毎回、楽しみにしています。これからも、よろしくお願いします。 平井
私の持論ですが、国家とは単独・複数を問わず、地域・習慣を共有する民族の集団なのですから、まさに一人ひとりが国家を形成しているものだと考えています。その集団社会を維持していくためのルールが、憲法であり法律であって、これらは己を守ってもらうものでもなければ、守らされるものでもないと考えます。
昨今の数々の不正問題にしても、「ルールを守る」という根本を棚上げにして、発覚した当事者のみを糾弾する風潮を感じます。選挙の投票率の低さも、民主主義を守るというルールへの軽視でしょう。
毎朝の通勤時に、横断歩道の赤信号を無視して渡っていく、老若男女の多さには驚きます。彼らの大半は、昨今の偽装問題や不正を非難しているでしょう。そういう資格があるのでしょうか?JAS法違反や建築基準法違反などには声を挙げて糾弾するが、道交法違反は問題ないと当然のごとく犯すという、文洲さんもいわれているように、自己への甘さが今の日本には蔓延しています。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という風潮に棹差して、信号が変わるまで独り横断歩道に立ち止まるという些細な行動ではありますが、小さな行動の必要性に言及していただいたことに感謝いたします。
若者の自立について、特に男の依存症は目に余る状況だと思います。
以前(猿の国から)という高崎山のサルの管理をしている人の本を読んだことがあります。
社会を作る動物は女系社会で、オスは生まれて青年期に入ると群れを離れます。
武者修行の末優秀なオスだと判断された時異なる群れに受け入れられます。
この時婦人会の有力者、裏ボスの厳しいチェック、殆ど苛めを乗り越えたもののみが群れに受け入れられる。
血が濃くならないようにという意味では、種族維持としては厳しい自然のおきてでしょう。
テレビを観ていたらライオンもそうでした。
このサル山である群れの婦人会の有力者の息子が武者修行に出ないでその群れのボスになった。
すると戦いのときにボスは先頭に立たないで逃げてしまった。
なんだか日本の総理大臣をみているようですが、そうです日本の学校から苛めをなくすのをやめましょう、そうして苛めを乗り越えて自己実現できる強い大人を作りましょう。
苛めに負けて自殺したら、自然の摂理だ社会を構成する動物の優秀な種族を維持するための自然淘汰だと考える。
とは言うもののマザコン坊やがチョットいきずまると鬱になる現実をどうしよう。
私共の会社においても、経営リーダーの若返りを標榜し、数年前から新たな人事施策が実施されています。その一つが、役員の定年制であり、更には、事業経営リーダーとしての事業部長やビジネスユニットリーダーの低年齢化です。具体的には、社長でも64歳とか、副社長で62歳、その他役員は60歳として、長期政権による弊害を無くそうとしたことです。加えて、ビジネスユニットリーダーを50歳以下を対象に登用することになったのですが、これは若い経営者の育成と若さの活力による革新の促進という狙いで説明されていますが、本質は「団塊の世代」対策が大きな目的であったようです。若返りの実現に向けて、年齢という尺度で規制することによって果たして本質的な若返りが達成できるのでしょうか?私共社内でも、実施後数年が経過し、登用された「若きリーダー」を見ますと若さと毛並みと言葉の威勢に加え、いきなりの実施で選ぶ側にも「個人的意思」が入り、
客観性の尺度に欠ける例が多く見受けられます。確かに、年齢という尺度は、重要な項目の一つでしょうが、55歳や60歳でも若さを持ち、40歳代より活力溢れる人もいるわけで、
必ずしも年齢で推し量れるものではないはずです。むしろ、今の40歳〜50歳は、20歳前後の人間形成期を高度成長後の豊かな日本、バブル社会で過ごした人たちであり、且つ、私共の会社では、そのほとんどが高学歴であり、メーカーで最も大切な現場での経験という要素が抜け落ちている人たちです。更に、不幸なことは、会社に入ってから、労働条件が厚遇され、厳しい場面には立たず、団塊の世代を先輩・上司が、具体的な辛酸をなめさせられていたという現実の元に育ったということでしょう。反面、現在の50歳代の社員には、明らかにしらけムードが存在することは否めない事実です。このような会社の雇用環境も日本の現在を象徴しているように感じます。最後に、私が最も憂うことは、以上のような現実の中で、30歳以下の次々代を担う若者達が、はっきり言って「迷える子羊」のようになっていることです。この原因は、日本の教育制度などにも大きな問題があったと考えますが、戦後の日本50年〜60年で、崩壊した日本人の自立心、日本を考える心などを再生するには、相当の年月と労力が必要な貴がします。
>と社会に貢献できるはず」とか、「日中の
>架け橋になってください」とか言われま
>す。
宋さんから言わせれば,「言ってる自分がまず実行して困ったら相談しなさい」というところでしょうか。
>テレビや新聞からの受け売りの国家天下論
>を好む人が多いのです。
個人の思考停止状態ですね。
最近の日本人は本も読みませんからね。
>そんなママゴトをする前に個人のことを真
>剣に考えてほしいものです。日本が困って
>いるのは正に日本という国家に依存する個
>人が多すぎるところです。
耳が痛いですね。
自戒します。
>私は高邁なことを言わずに静かな信念を持
>ち、小さな行動を続ける人々を尊敬してい
>ます。
私もそう思いますし,できるだけそうしようと行動しています。
日本には「不言実行」という格言があったのですが,欧米のマネをして「有言実行」が流行り
実態は「有言不履行」が幅を利かせています。
自分もそうならないように努力していきたいと思います。
高邁なことを言わずに静かな信念を持ち、小さな行動を続ける人々。
これは、真面目で正直な一庶民って
ことでしょうか。
それとも経営まで果たした方々の
カリスマ性に富んだ方なんでしょうか。
考えさせられますね。
神様みたいな人間になるってことです。
(でも、神様みたいになるなんて、高邁な氣もします)
日本には八百万の神々がいる、と言われていますし、
真面目にコツコツ生きていたらそうなるのかもしれませんね?
豊かな社会の弊害。
豊かな社会には良い意味でも、悪い意味でも隙間があります。甘い汁が一杯あります。
結果のためには何でもありという考え方が蔓延します。
喜を尊び、憂を嫌います。努力なくして果実だけを得ようとします。他人を押しのけても自分だけ得をしようとします。多少のことは目をつぶって成果をあげようとします。
それが正しいと錯覚します。
錯覚の中で一生懸命生きています。
豊かで平和な社会にはいつも甘い罠が仕掛けられていることを忘れてはいけません。
罠にかかって、自分の意思を曲げているうちに、曲げていることさえ気づかずに信念を忘れてしまうのです。
日本にも、企業にも、まして家族にも依存せずに生きていくことはすばらしいことだと思います。
を動かす事にもなりますよね。沖縄の教科
書検定意見撤回を求める10万人超の集会
に参加した時にもそう思いました。
確かに、自立して自分を前面に出す事は
それだけ誤解や敵対者を生む事になりま
すが、それを恐れるあまり「自分のない」
人が多いような気がします。
私も小さき人間ながら、まずは自分の為
に、そしてそれが誰かの役に立ったり、
喜んでもらえるような事を一つでも多く
やれるよう頑張りたいと思います。
インターネットを通じ知り合った、東郷
潤さんのホームページをご紹介します。
彼も、私財を投入して地道な活動を続け
ておられる「静かな信念を持ち、小さな
行動を続ける人々」の中のお一人だと思
います。
http://www.j15.org/
これからも、宗さんのメルマガ楽しみに
しています!
日本人の依存体質を論じた本です。
徳川幕府が400年も続いた影響でしょうか、日本人の中には「お上が何とかしてくれる」「長いものには巻かれろ」的な受身の生き方が
根付いてしまった感があります。
今になって「リーダーが必要」なんて言っていますが、だいたい教育現場からして「皆と同じ」を押し付け、上のものに従うだけをよしとする
管理教育をやっているのに、リーダーが育つはずがないじゃないですか。強いリーダーには反対されてもわが道を行く個性が必要ですが、その個性をつぶすようなことばかりやっているのですから。
若い世代も「空気を読む」ことに熱心でなんとなく覇気に欠けています。
国際社会でもリーダーシップに欠ける日本。
これからどうなっていくのか・・・。
一人ひとりが自覚して自立を目指すしかないのでしょう。
お上を当てにする事こそ依存に他ならないのですから。
第二次世界大戦後以外には千年以上も他国に侵略されたことがない、戦国武将間の内戦と言っても庶民は巻き添えにならなかった、そのように庶民が国家政府や地域間の争いの犠牲になることがほとんど無かった歴史的な背景も日本人を国や集団への依存体質を強くしているのだと感じています。
まあ自立というのは日本だけの問題ではありません。
自立をするというのは実はかなり難しい事です。
これは全人類の問題であり価値観の問題です。
それこそ全ての人が国家から自立できれば世界は平和になるでしょう。
日本の若者がなぜ自立できないのかという理由を上げれば日本のシステムとか豊かさとか色々上げれるでしょうし、またそれを上げたら切がないのでやめます。
以前宋さんがもっと日本の若者は外国に行くべきと言ってました。
しかも留学という形ではない長くその場所で生きていく生活の地にしろと言ってたと思います。
まあ確かに日本人は中国の華僑ほど外国で暮らしてはいません。
まあ人口の差もあるのでしょうけど、外国で一旗上げようみたいな気概を持った人は少ない感じはします。
しかし、中国の華僑の人たちが完全に中国から自立したかと言えば中華街を見てみればわかることです。
何を持って自立とするか、実はかなり難しい事です。
たぶん経済的なことが第一に上がるのでしょうけど、経済ほど人類全体で依存しあってるものはありません。
物理的自立、精神的自立、そんなものはあるのかと現代哲学などでは説いてたりします。
自立とはなにか、とりあえず私なら生活費を稼ぐ事と答えます。
ただ宋さんは獅子を育てないなら千尋の谷に獅子を突き落とせみたいな事が言いたいのではないでしょうか?
それならまず獅子を育てたいと思ってるのか日本人に問うべきだと思います。
まっっっったくもって、同感!!!!
正にその通りです!!!
私も学生を卒業し、家を出て、時には(2週間ほど)部屋を失い友人宅を転々としたり公園に寝たりした事もあります。
その時、不思議と実家に帰ると言う選択肢は浮かびませんでした。
その経験がどうとは思いませんが、とにかく精神的自立は、誰もが志すべき必須項目だと思います!!!
自分も、まだまだな部分が多いだけに耳が痛い反面、精進していくだけです。
感銘!!!!!
【「自立」は「孤立」の代名詞】本当に自立する事は、「口で言うほど簡単ではない」と受け止めました。宋さんのメルマガを毎回読ませていただき、寄せられる多くのコメントにも目を通しておりますが、宋さんの表現方法は、一つの言葉に多くの意味を含ませている事が多いと気がつきました。これを理解せずに表面の言葉だけを捉えてしまうと、全体が違う意味の文章になってしまいますね。コメントの中には、残念ながら表面的な言葉に対するものがあります。詳しくは分かりませんが、漢詩などは同様に、一つの言葉に多くの意味を持たせる事が多くあるのではないでしょうか。私としては、この様な事も楽しみながら読ませていただいています。
さて本題ですが、人は社会の中で自分の果たすべき事を自覚できなければ、本当に自立する事はできないのではないでしょうか。つまり、自分の人生の目的、生きがい、使命など・・・どの様なことなのか?少なくとも考える事が出来るか、出来ないかが大きな分かれ道になると思います。
どんなに恵まれた環境に生まれても、一日一日をその環境に頼って、ただ生存しているだけのような人生を送っては、死ぬまで自立は出来ないでしょうし、不幸な人生と言えるのではないでしょうか。
また、苦難の連続で、しかも社会的弱者であっても、その人なりの自覚を持つ人は、その時点で自立しており、幸せを感じる事ができると思います。
私は会社員で経営の経験がありませんので、宋さんの言われる本質が理解できていないかも知れませんが、何れにしても、精神的苦難や物理的苦難に必死に耐え、歯を食いしばって前に進んでいくところに、「自立」があると思いますし、「自立」できない人生は不幸だと思っています。
もう一点・・・
「社会貢献・・・」「日中の架け橋・・・」についてですが、これは何か大きな事業で行うのではなく、その人の立場の範囲で考えていけば、誰にでも出る事ではないかと思います。私のようなしがないサラリーマンでも、「近所のラーメン屋さんに勤める陳さんと親しくお付き合いをする」これだけでも「中日の架け橋」になりませんか?「バス停に落ちているゴミを拾う」これだけでも社会貢献になりますよね。
宋さんはこのように、経営から一線退かれたお立場で、メルマガを使って多くの人に語りかけているだけでも中日の架け橋を立派に担っておられると思うのですが、如何でしょうか。そして、また何か別の事を考えられ、動かれる事を楽しみにしたいと思います。
最後にテレビや新聞などマスメディアについてですが、マスメディアの垂れ流す情報は、大多数のまやかしの中に、ほんの少しの真実が混じっている事を見抜く事も、自立の一つかと思います。
もちろん、(1)であろうと(2)であろうと自立が達成された場合に若者は幸福でしょうから、それは目出度い。しかし、(2)の場合、『コチラに手間をかけさせずに、アンタ勝手に自立してよ』ということだと、ちょっと納得いかないですね。
若者が自立するのに苦労が必要、ごもっとも。で、その『苦労』を与える・見守るのにもコストがかかるんですけど、誰がもちますかな。
「民草」という言葉がありますが、生えてきた草を為政者が刈取るのは、まぁ仕方がないとして、草が生えやすいように条件を整えるのも為政者の仕事。それをしないで、刈取りばっかりしてるから平原が荒廃し、結果この国は人口が減るんですよ。
本来自立は孤独ではなく、責任ある人と思う。
でも日本ではもたれあいから外れ孤独なのかも。
どのような視点で判断し行動してゆくのか?いつまでも「お子様」でいる事を許してしまう土壌。為政者や権力からすれば子どもの方が統治しやすいのでしょうが、そこが問題であるような気がしております。
建前論には原則として反論が出来ないことが多いです。ですから少なくとも表面的には無難な生活が可能でしょう。いわゆる良い人になれます。そして自立の必要性も低いでしょう。
一方、本音には反論が付きもので、時として批判さえ受けるでしょう。それに耐えることは相当の覚悟が必要です。公序良俗に反しない自分の生き方に自信が無ければ、陰口や中傷の伴う孤立に耐えることは難しいです。
自分と違う生き方をする人を認めることが苦手の人は、ある面で恵まれた生活を送ってきた人に多い気がします。
私事ですが、若い頃は肉体的ハンディキャップに悩んでいましたが、古希になった今は、いつの間にかアドバンテージになっていると感じています。悩んだり苦しんだりする人の気持ちが自分なりに共感出来ると感じることが多いです。「人生万事塞翁が馬」を忘れずに居て欲しいし、居たいと思います。
宋さんの文は「ああ、なるほど〜」と分かる部分もあるのですが、今回の内容はちょっと分かりにくかった。
リーダーとして、なにが必要なのか?
「孤立」に打ち勝てる精神力?
具体的に、どう、なのか、を教えていただけると、もっと、納得できます。
よろしく!!
同感です。私もこういう人と出会うとすぐお気に入りに追加してしまいます。
日本は長い間(2000年以上)、お上の国でした。何か問題があればお上が何とかすべきであり、自分たちが行動するのではなく、徒党を組んでお上に注文をつける。これが長い間の習性となり、日本人のDNAとなっていると感じます。
徳川時代は徳川家に、明治維新後は天皇に、2次大戦後はアメリカに依存しすべての判断基準はお上の意向に基づきます。
そこにはお上の意向を戴して働く優秀な官僚群がいるからです。国民は徒党を組んで官僚群に陳情すれば道が開けるからです。浮動票では今まで全くのチャンスはありませんでしたが、今はテレビのコメンテーター達が適当に世論を形成します。オーム真理教が一度、選挙に出ましたが、成功していたら第二公明党になっていたことでしょう。
「自立」とは、この官僚による支配から抜け出し、自らの責任で日本という国家をどのようにするか国民の一人、一人がはっきりとした意思表示と行動をすることであると思っています。
2000年以上続いた官僚支配を打破するには、破壊が必要です。小沢さんを支持してきたのは清廉潔白なことではなく、自民党政治を打破し、官僚支配を弱める可能性を認めたからです。例え、民主党の政権ができても優秀な官僚諸君は容易に籠絡することでしょうが、一時的は混乱し弱ることでしょう。民主党が籠絡されたら自民党を支持します。多数派が形成されるなら共産党でも厭わない。
しかし、その「便利さ」が、日本人を弱くしているのではないかと、常々感じています。
24時間開いているコンビニ。日曜日でも開いているスーパー。客を貴人のように扱うお店。時間通りに訪れるサービスマン。3分の狂いも許さず運行される電車。どれも、日本以外では望めない「便利さ」ではないでしょうか。
その代わり我々は、個人として努力する機会を失っていると思います。例えば、後で困らぬよう事前に計画して行動すること。人に頼らず自分で処理すること。時間にあくせくしないこと。どれも、趣味の世界としてはありますが、生活の中には余りないことのように思えます。
生活も自立しえないで、個人としての自立はないのではないでしょうか。
宋さんのご意見には、我々日本人の内輪だけでは得られない視点を提供して頂けるので、
大変に貴重なものです。そのために頼りにされてしまうのだと思います。
だから、どうか煩わしく思わないで下さい。
また、もしできれば、宋さんの祖国(中国、という言い方にはちょっと抵抗が有ります…)の方々に、
日本人のいい所、悪い所を冷静に、率直に伝えていって貰えたら、と思います。
お互いが不信感を募らせつつも依存度が高まっているのが現状だと思います。
特効薬は無いのでしょうが、わずかづつでも相互理解を深めていくことが必要です。
(理解というより、良い意味での、感情的な交流が一番なのですが…。)
自立論については、若干、宋さんとは意見が違いますが(行き過ぎた、強迫的な自立観念には反対です)、
ことリーダーに関しては、反論の余地有りません。その通りです。
リーダーをいかに育成するかが、日本の重要課題ですね。
(付け加えると、アメリカからの自立が根本と感じますが。)
…
人にはそれぞれ役回りが有ると思います。(本質的にこの世界はロールプレイングです。)
好むと好まざるとに関わらず、それからは逃げれないと思います。
これからも宋さんのコラム楽しみにしてます。
本当に大変な課題だと思います。
クリアできれば日本にも外国人を受け入れる土壌が出来るでしょう。
自分は来年から日本に依存しない地球人を目指します。
「甘えの構造」「親方日の丸主義」「集団主義」「相互依存症候群」「組織化無責任(責任が微分的に組織内に分散して霧消する)」等々、様々に言い尽くされてきました。
ただ、もたれあって少ない労力でなるべく多くの成果を手に入れる方が、なんと言っても「得」ですよね。しんどい目せず、楽して稼ぐほうに皆傾きますよ。それが庶民の知恵であり、哲学です。そのどこが悪いというのですか。
でも、リーダーの哲学ではない。決してない。庶民の哲学しか持たない者(もてない者)が、大臣になって収賄し国民をなおざりにし、社長になって知らぬ顔をして偽装商品を売り消費者を踏みつける。楽をして金儲けし、出世する。大銀行、大企業面をして、中小業者を当たり前のように絞り上げたり、東大卒を鼻にぶら下げて大して意味のないことを大袈裟に言う。それも同じでしょう。
リーダー哲学の欠乏ないし未熟。日本の針路に不安を持つ内外の人の憂いがそこに凝縮している。
それなのに、なぜ、こうも日本が経済大国になったのか。それは、リーダーが決して不在なのではなく、「静かな信念をもち、小さな行動を続ける人々」を身の回りにたくさん抱えていたからだと、私は考えています。そして、その「嗜み(普段の心がけ)を持ち、勤しみを忘れぬ人々」が減りつつあるのではないかと心配しています。
初心に帰ってもう一度自分の行動規範を確認してみました。主体的に考え、しかもそれを行動に移しているか。何が正しくて、なにをしなければならないか考えているか。今自分がしなければならないことを毎日こつこつとやっているか。地道な努力をすっ飛ばすような甘いことを考えていないか。宋さんの発言は絶好の反省材料になりました。ありがとうございます。
何かあるとすぐ政府や周りの人が何とかしてくれると、自分で努力することなくすぐ集団を頼み、メディアに訴える風潮がひょっとして我々のDNAに根ざしているものなのかどうか非常に気になりだしました。
四季があり豊かな自然がある日本の風土が生んだ国民性ゆえか、天変地異があっても時間さえ経過すれば、また太陽が照って雨が降って豊穣な収穫を期待できるという繰り返しの中で型作られた何か受動的な要素が日本人の中にあるのではないか? それとも戦国時代のような何が何でも自分ひとり生きてやるといった剥き出しの野性、そこまではいかないまでも終戦後のようにここをなんとか凌げばこれ以上は悪くならないといったしたたかでずるい国民性も我々にはあるのではないか。でも今回は、一般論をいっているようではだめですね。
もっともらしい歴史観や、受け売りの抽象論を言う前に今一度自分で何ができるか、なにをしているのか、何をしようとしているのか、それは何のためなのかしっかりと考えながら一つ一つ問題や課題を克服していかなければならないとあらためて意識しました。こう考えると我々にはもっとシンプルで地に足が着いた哲学(信念)がいるのかもしれませんね。
PS.今回の宋さんの発言に、これまでの宋さんらしくない投げやりな気配を感じたのは私だけでしょうか。
私は今も「孤立」を恐れていますし、確かに自分の信念を貫けないことがあります。流れや空気を読んで、必死に周囲の雰囲気になじもうとします。嫌いな上司の機嫌も取ります。でもそれは私にとって大きなストレスでもありました。
「孤立」で失うものは確かにあると思います。たとえ小さなものでも、失ってしまうと大きく感じるのかもしれませんね。
宋さんのエールを胸に、自分の信念をしっかりと自立して育てて行こうと思いました。元気付けてくださってありがとうございました。
大変興味深いご意見として毎回拝見させていただいております。
しかし、今回はあなたのご意見があまりにも矛盾していると思いコメントさせていただきます。
>日本には苦難を経験する若者の数が少ないのです
ということですが、その言葉自体あなたがおっしゃっている
>テレビや新聞からの受け売りの国家天下論
なのではないでしょうか?
宋さんの考える「精神的自立を鍛える機会」
ということ自体が宋さん、あなたが定義した
自立ではないでしょうか?
私は33歳の会社員ですが自分なりの「精神的自立を鍛える機会」を経験し、悩み苦しみ・・・自分を鍛えてきたつもりです。
批判とは受け取らずご意見としてお受けいただけたら幸いです。
私は、今、特定非営利活動法人(NPOやNGPといわれる団体)に所属しております。当団体では、企業でいう取締役等の経営者にあたる「理事」という立場の人間が団体の運営方針や活動方針を決定しています。そして、この理事の方々の平均年齢はおそらく60後半となっております。
当団体でも理事の若返りが話題にのぼることがありますが、当団体には50代〜30代後半の世代がおらず、団体内で若年化を図ろうとすると若年化を通り越して「幼年化」になってしまいます。また、理事の中には「経験をもっと積んだ上でしかるべきポストを任せたい」という方も少なくありません。そして、このようなことをいう方に限って「経験とは何か、どうすれば経験を積めるのか、経験を積んでいるとはどういうことか」について具体的なことは語ってはくれません。おそらく、この方々のいう経験とは「時間」であり、経験を積むということは「長い時間、関わっている」ということなのでしょう。
宋様がおっしゃるとおり、年を重ねただけで偉そうにしている人がいる一方、年を重ねないと得られない要素があることも事実です。経験とは、どれだけ長い時間を重ねたかではなく「どれだけ目の前の事象とその背景に向き合い、自分自身で熟慮して判断し決定し行動し、その結果を自分自身で負ったか」であり、この「自分自身でやる」ということが精神的自立なのではないかと思っております。
宋様は「今の日本社会には早いうちに若者の精神的自立を鍛える機会が少ないのです。」と書いておられます。私は、精神的自立を鍛えるためには、当事者意識を持つようにするのがよいのではないかと考えています。例えば、企業に勤めていれば、企業の業績や将来を決めるのは社長や重役、上司だけでなく、自分自身でもあるという意識を持つことです。そうすれば、企業の業績をあげるために、何をすればいいのか、なぜそれをやらなければならないのか、自分自身で考え行動するようになるのではないかと思うのです。実際には、行動までさせてくれるようになるのは難しいとも思いますが。
当事者意識を持っていれば、問題に対して自分で動こうという気になるのではないでしょうか。当事者意識を持っていないからこそ、「もっと社会に貢献できるはず」とか、「日中の架け橋になってください」とか言うのだと思います。
「誰か(自分以外の個人あるいは会社や国)が何とかしてくれる」とか「誰かに何とかしてもらおう」とか、そういう考えが蔓延し通用しているようでは、未来はないと確信しております。
偉そうに言っている私ですが、自分自身を省みるとまだまだ精神的に自立しているとはいえません。ですので、今後も自立に向けて少しずつでも行動していくことにします。
「年齢で人材を差別すべきではない」というのは宋さんの文脈とは多分逆で、歳がいっているからといって差別はして欲しくない、という意味に使いたいです。だから、見栄えも精神面も若さを保つように意識しています。今の50−60代の方は大部分の方がそういう意識ではないのでしょうか。テニスやウィンドサーフィンとかいったスポーツでもこの年齢が中心ではないですか。意識して若さを保つ努力をしておられる。私が望むのは、本当に「生年月日」の関係ない社会です。
ちなみに、日本は1970年に高齢化社会(65歳以上の比率が7%以上)になり、1994年には高齢社会(65歳以上の比率が14%以上)になりましたが、とうとう今年2007年に超高齢社会(65歳以上の比率が21%以上)に突入しました。
報道では、65歳以上のほぼ半数が75歳以上とのことです。
高齢者雇用安定法では今年から、65歳までの雇用の制度化が義務づけられてしまい会社にも高齢者がはびこる素地を作ることになりました。
「義務づけられた」とか「はびこる」とか失礼と思われるような表現をあえて使ったのは、本当に労害社会になると懸念するからです。
お年寄りは大切にしなければなりません。それは人間として普遍的なことと思います。それと雇用を維持すると言うこととは同時には論じられません。
私は50代前半ですが、明日は我が身です。しかし、会社努めに拘泥するつもりは全くありません。
老後は不安です。なぜ不安かというと何歳まで生きるか分からない。それ故に人生設計ができないからです。
それでも高齢者雇用安定法は悪法だと思っています
我が社の周囲を見回すと、再雇用、再々雇用の役付きお年寄りが沢山いて、今後増加するのかと思うとぞっとするような人材が沢山います。
一方で、若者の成長が遅い。それは、年配者が頭上にのしかかっていてポスト不足の結果、成長の機会を奪っているからではないかと思います。まず、間違いないでしょう。
高齢者雇用安定法は年金の支給開始時期を遅らせたことによるものですが、やむを得ないことだったでしょうか?年金制度の改革は必要です。税金の投入も必要だと思います。
思い切って、年金は60歳支給開始。さらに、官民ともに60歳以上の雇用を禁止する法律を作っては如何でしょう。
雇用して欲しい場合は、61歳以上が起業する会社に雇用される場合に限定するなどの荒療治は如何でしょうか?
ところで、お国の中国も相当の労害大国だと思いますが、、、
父が亡くなった後、近所の民生委員の人がやってきて、国に母子家庭手当を申請するかと尋ねましたが、母は人様の世話にはなりたくないと、その申し出をことわりました。
もらえるモノならなんでも貰おうとする人が多い今の世の中では、きっと、考えられないことだと思います。
しかし、それが母の美徳です。強く自立した母のお陰で、なに不自由なく育ち、姉は短大、私は4年制の大学にまで、いかせてもらいました。
そんなことを、あらためて思い返しました。私は今、父が亡くなった時の母の年を、ちょっと越えたアタリです。
話を聞いていると、なんとなく可能なような気分になってくるのですが、
冷静に考えれば、本当は日本一にもなれない会社でした。
その業界は、日本一になれば、自動的に世界一になれる業界でしたので、
実は、日本一を目指せばいいのです。
しかし、日本一というと、日本の強力な競合他社が頭に浮かんできます。
それらの会社全てに勝利するのは、夢のまた夢です。
それをあえて世界一と言うのは、厳しい日本国内の現実から目をそむけさせ、日本より劣る外国の競合他社に勝ちさえすれば、世界一になれるかのような錯覚を与える、姑息なレトリックのように思えました。
多分その社長は、その言葉で長年に亘って自分自身を欺いてきたのでしょう。
今回の宋さんのコラムを読んで、そうした昔のことを思い出しました。
天下国家を論じるより、個人のことを真剣に考えて欲しいという言葉には
上記のことに通じるものがあり、大変共感致しました。
宋さんに共感いたします。
いま、希望をもって生々しくいえば欲望を持っている人が少ない気がします。
その人たちに共通しているのが相互依存です。
自立と自律をもって
あれも、これもと他欲であるほうが人間らしい気がします。
何も言わなくても親が夕食を作ってくれているし、
車を買うお金も、学費も、親から借りました。
この甘ったれた現状が良いとは思えませんが、
抜け出す自立心も無い気がしています。
独り暮らしで今の残業地獄に耐えられるかと問われれば、
1ヶ月で辞めるだろうと答えます。
時間的余裕の無い社会が自立心を削いでいるとか、
歴史的背景が・・・とか言えば、
自分のせいじゃなくなった気がして楽ですが、
それで良いはずがないこともわかってしまいます。
どうすれば良いかを考えながら周囲に依存して生きています。
http://www.youtube.com/watch?v=xE0iPY7XGBo
JFK Inaugural Address 2 of 2
http://www.youtube.com/watch?v=3s6U8GActdQ
日本だけではありません。今、アメリカでは次期大統領候補のヒラリー氏やオバマ氏に聴衆は期待しています。ヒラリー氏は中国やインドに移ってしまったミドルクラスの生活を多くのアメリカ国民へまた戻すんだーと一生懸命アピールしています。多くのアメリカ国民は8年も続いたブッシュ政権に疲れてしまって、何かを変えたがっています。自分の生活が一番変わって欲しいのが正直なところでしょうけど、ブッシュに裏切られた分、ヒラリー氏やオバマ氏に期待するところが大きいんです。多くのアメリカ人も合衆国政府に頼っています。ドナルド・トランプ氏やロバート・キヨサキ氏の本なんかを読むと、“アメリカ国民は政府に頼らないようにならなくてはだめだ”と両氏とも訴えています。
Give a man a fish, and you feed him for a day. Teach him to fish, and you feed him for a lifetime.
今、中小企業に勤めていますが、新しい事(企業にとって必要なこと)を自ら行なおうとすると、決まって抵抗(特に役職付きの方)に遭うことが時々あり、それでも進めていくと何時の間にか「孤立」していることがあります(*それでも理解して頂ける方々を少しづつ増やして共に活動していくようにしております)。その抵抗は、日本人特有の「馴れ合い」と「変化を好まない」風潮のようなものに起因しているのでしょう。しかし、そのコミュニティーを自ら出ると、今まで自分自身もしくは他の人に見れないものが非常に鮮明に見えてきます。それが非常に面白く、または嬉く思います。
また、よく抵抗される方々からは、「社会人数年の若年」や「社会の仕組みを知らない者」と言われたりします。ブログ中にも記載されていますが、「加齢」による能力の向上もあると思うのですが、最近良く思うことは、「経験値」が能力を高めるものと考えるようになりました。この「経験値」とは、ある事象に対して、「考えることの質と量」×「行動」だと思います。従って、適当に年を重ねて来た人より、若いうちから苦労を重ねてきた方の人の方が「経験値」が多いし、人としての質が上ということもあると思います。
(よく、「若い内から苦労を重ねろ」と老年の方が言われることが、このことを指摘していると思います。)
逆にこの「経験値」が少ないと「自立」した人間に成れないと宋さんの文章を読んで思いました。自分もいち早く「自立」した人間に成りたいと強く思います。
去年の紅白歌合戦のビデオを観て、不思議だなあと思っていたのは、いろんな歌手が「架け橋になりたい」。とコメントしていることでした。本当にそう思っているかたも、いらっしゃるかもしれませんが、やはりこのかたたちは歌を歌うのが好きだから歌手になられたのだと思うのですが。要するにNHK的発言なのではないかと思います。そしてこれはすごい視聴率の番組ですからね。NHKにでると急にみんな「架け橋になりたい」と思うとしたらそれも変ですしねえ。
私もそのように思っております。
自分で考え、自分で行動できる人が少なくなってきています。
「自立」することとは、自己をつくることが必須だと思っております。
私は56歳です。私達が育った時代は生活が裕福ではなかったのですが、若者達には元気があって、活き活きしていたように記憶しております。
お金もモノも無い時代だからこそ、自分で考え自分で何かをやっていた。
親も周りの人たちもある意味、自分のことで精一杯だったのだ。しかし苦しい人には、頑張っている人には手をさしのべ応援をする心の余裕があった。
貧乏な時代を過ごしましたが、心は貧乏ではなかった。
夢を食って大きくなって行った若者が多くいた。
お金では買えないモノを体感した団塊の世代の人達が今伝えなければならないことがあると思います。
”精神的自立を鍛える機会が少ない”
毎日が日曜日の生活をしている、元気な世代(団塊の世代)の人達が、これからの日本をつなぐ若者達と一緒に考え、行動することが大事なことと考えます。
日本人は今でも”心が貧乏”なのです。
「菜根譚」
幸福を願いながらも、それが不幸のもとになることを見抜き、生を願いながらも、それが死に通じる道であることを承知している。これが知者というべきであろう。
豊かになった日本では、生活できることは当たり前で、いかにして自分の理想の生活に近づくかに主眼がある人が多いと思います。親に経済的余裕があるため、子供を抱え込む余力があり、そんな子供は失業も離婚も可能です。気に入らないことがあれば、親元に逃げ込めばいいのですから。そんな環境では、幼い人間は増えても自立は期待薄と思います。個々の家庭が変わらなければ、外での苦労は苦労になりません。「逃げる」人の増加は、ひいては経済の衰退につながるような気がしてなりません。
ただ、家庭に口をはさむことはできないので、根は深いでしょう。私は甘えに起因する貧富の差の拡大、二極化現象はやむをえないと思います。
もちろん例外の方々も多いはずです。日々目のあたりにして感じたことを、書いてみました。
確かに安倍さんよりは、福田さんと小沢さんがはるかに安定していると思いますが、ベストだとは思えません。今の日本をよりよくするには、外国で遊学ではなく、修羅場をくぐってきた意志の強い人間がベストだと思います。理想としては、明治維新の時に、海外で学んできた日本を変えた人たちのような方です。
福田さんが自立を話すときに感じることは、自治体は、国に頼るなという印象を持つことと、国家は自立できるのかというかすかな望みです。つまり、今まで散々無駄遣いをしてきて膨らませてきた国の借金を、国民に肩代わりさせずに真っ向から自分たちの作った借金を減らし、国民の生活をよくできるかということです。私は、国の抱えている借金は、国民への社会保障が税収よりも充実していたために膨らんだとは到底思えません。また、少子化だと老人が増えるとお金がかかるから、増税はやむを得ないではなく、少子化を食い止めて、子供の育てやすい環境を作り、将来安心できるような計算をできないのかということです。日本の出生率は先進国の中でも最低です。それは、子育てのしやすい環境を作り上げることにより、大いに改善する余地があるのではないでしょうか?
国民の自立の前に、国に自立してほしいです。国家再生機構みたいな機関が必要かもしれませんね。
弊社は企画、広報、コンサルティングを通じて地域(にいる人)を活性化するための仕事をしています。目下のところ、商品は「岩手県」です。笑
宋さん、いつもありがとうございます。
弊社は現在、【起業志塾】で若者と経営者の交流会あるいは実践的な勉強会を月に2回(第2、第4金曜、18:30〜)岩手県公会堂で主催しています。会費は500円です。
【起業志塾】は自立(成長)したい若者や事業課題がある経営者、企業家が集まります。これまでに6回開催し、50人近くが参加しました。
先日の【起業志塾】では観光商品の開発案件について会議し、まったく背景の異なる者同士が協力することで話が進みました。
地方経済が縮小にある中、深刻なのはみんなの心が萎えてしまうことです。誇りや自信まで失ってしまうこととも言い換えることができます。
そうならないためには、浮き足立った生き方ではなく、地に足をつけた、いや、それ以上に根っこを張ってどしっと構えた暮らしを営んでいくことが遠いようで近い道だと思っています。
畑を耕し、地域の生活道路を整備し、祭りを企画し、加工商品を売る。外の人と交流をし、子どもを養い、後世に知恵を伝えていくことだと思います(ほかにもすることはたくさんあります)。
弊社は地味で面倒な、でもやりがいがあって派手には儲からない仕事、いわば実業を提案しています。
実業をしていれば、少ないけれどお金が入ってきますし、人とのやりとりが生まれます。研鑽もしますし、宋さんのおっしゃるように一喜一憂も出来ます。
2年間ほど創意工夫しながら実業を実践してきて、徐々にですが良い方向に向かっているように思います。私はこれからも社長業を継続し、少しでも多くの若者たちや悩んでいる人たちに1つのケース(=事例)として傍に居たいと思っています。
頑張りますので、宋さんはじめ、みなさん、ぜひとも私を応援してください。お願いします。
追伸:
宋さん、【起業志塾】にメインスピーカーとして参加していただけませんか?
盛岡でお待ちしております!
いきなりですが、「今の日本社会には早いうちに若者の精神的自立を鍛える機会が少ないのです。誰のせいでもありません。社会全体が知らないうちに甘い体質になってしまいました。」
という話には、納得できません。実際に、私の知り合いには、精神的に鍛えられた、強くて、エネルギーに溢れる「若者」が数多くいます。もちろん、反対に、エネルギーなく、流されて生きている人間も数多くいるでしょう。
間違いなく、前者が、社会を引っ張り、後者を使っていくでしょう。というより、後者の人々には、人を使っていくという意志自体もっていないと思います。
では、この段差は、いつからあったのでしょうか??
少し前の時代の、良い大学に入り、一流の企業に入社して、仕事・仕事、それで、中流の生活が約束される。という学歴社会と年功序列のスパイラルの中に、宗さんの言う、「精神的に鍛える」という期間があったのでしょうか?
私には、その社会が、「辛い」体質だなんて思えませんし、そんな社会こそ甘い体質だ思えます。
だから、私は、甘い体質になったのではなく、甘い体質だったのだと思います。
それなのに、社会は、変わったのに、教育も大人も変わらなかった。そんな甘い体質の中で育った、無自覚な青年が、今の時代に合わないのは、むしろ当然でしょう。では、なぜ、皆変わろうとしないのでしょうか?むしろ戻ろうとしています。
なぜか、理由は、簡単です。過去の強烈な成功が、そうさせるのです。時代は、変わったのですがね。過去の成功に引きずられていては、何も変えられません。柳の下に、ドジョウは、二度いないのですから。
何が、いいとは言いません。ただ、時代が、変わったのでしょう。
だから、(だからが多いですね(^。^”)問題は、精神的な強さ云々の前に、時代は変わったのに、前時代的なシステムで社会が回っていること自体にあると思います。
例えば、若い経営者が求められるのに、企業は、未だに、年功序列型の秩序から逃れられない(そんな企業は、減ってきていると思いますが…論として許してください)。受験や教育(一緒か…)も問題は、同じだと思います。
今回のコラムを読んで、こんなことを思いました。今度は、「精神的に鍛える」とは、具体的にどんなこと意味するのか、伺いたいですね。
最後に、これは、宗さんに向けたメッセージです。できれば、コメント一覧に載せるのは、避けていただけるとうれしいです。
大変興味深いコラムでした。でわ、お仕事がんばってくださいv(^。^)v
確かに、いかにも「今の若者達は精神的に自立していない」と言えば、もっともらしく聞こえます。 今の若者達が「精神的に自立」していない人が多いとすれば、では団塊の世代の私を含めた年長者の多くは「精神的に自立」しているのでしょうか? 残念ながら、決してそうは思えません。
「自立」の反対語は「依存」ですが、「自立していない」=「依存している」と言うことになり、では何に依存しているのでしょうか? 家族や友人でしょうか、それとも地域や会社などの社会でしょうか。 人は一人では生きられないのですから、多かれ少なかれ、周りの人や社会に依存することになる当然のことです。
特に、この日本は「お上の言うことに間違いは無い」というように、昔から管理者に対して絶対的に従う風土がありました。 昔も今もその体質には大きな違いはありません。 ですから、欧米的な「個人主義的」で「独立的」な感覚は、日本人にはなじまないと思われます。 勿論、独立独歩的な考えの人も一部にはいましたし、大きな仕事をされたりもしていました。 しかし大勢は順応型の人が多かったし、今も多いと思います。
近年は国際化が進み、日本人の意識も変わってきていますから、かえって昔より「自立」する意識は高くなってきていると思いますがいかがでしょうか。
ただ私もそうですが、宋さんも広い社会を目にするようになり、また多くの経験を積み、そうした亀の甲羅を重ねた者から見れば、今の若者達が未熟であり、「自立」すらしていないように見えるのでしょう。 年寄りが「今の若い者が、、、」と嘆くのは江戸の昔からあったことです。 楽天的にものを見るのは私の悪い癖ですが、そんなに案ずることはないと思います。
今の若者達をもっと信用してあげたいと思っています。
相変わらず鋭いご指摘です。 日本人は今動物園の動物のようになってしまったようですね。大した努力をしなくても何でも手に入る。周りが何てもやってくれる。段々自分でやるべき事をやらなくなる。賞味期限問題が世間を賑せていますが以前はこんなものが無くても五感で判断して食べられるかどうか判断したものです。何でも他人頼みになりました。貧しい時代は生きるため食べるため皆な一所懸命でした。豊かになるとそうした気持ちが緩むのは今東西どこでも同じですが日本の場合はそれが顕著のような気がします。自立心をきちんと持てるような教育をもう一度やる必要があると思います。
「日中の架け橋になってください」という言葉に偽善さえ感じる、とおっしゃる気持ちは判らないではありません。
私は、上海に合計6ヶ月滞在したこともあり、友人も尊敬する中国の人もおります。
私にとって非常に辛いのが、「中国人」という言葉にネガティブなイメージが付きまとうことが段々多くなっている事です。
日本に居る「中国人」はほとんど犯罪者でるかのような暴言を耳にすることも少なくありません。
日本人である私がそのネガティブイメージを払拭しようとすることは、仕事上悪影響を及ぼすこともしばしば、時には身の危険さえ感じることがあります。
とはいえ、悪事を働いている訳でもない、私の尊敬する人々や友人をも侮辱する言葉には耐え難いものがあります。
「中国人」というひとくくりでしか見ず、中国の人々の個々のパーソナリティを知ろうとしない日本人の多く人々の無知が原因
であるのですが、情けないやら、悲しいやら。
宋さんのおっしゃるように、皆が日本から独立した意識をもつようになれば、このようなことも無いのかもしれません。
しかし、日本人の国際意識がもう少し成長するまでの今しばらくの間は、宋さんのような方々に、「中国人」に対する良いイメージを持つきっかけとなって欲しい、とつい期待してしまいます。
別になにをしなくても良いのです。
普通に生活をし、真面目にビジネスをしている中国国籍の人が居る、ということを一人でも多くの日本の人に知ってもらいたいのです。
そんな基本的なことすら知らない日本人が結構多いのです。
人間は本来社会的な動物なので、完全に自立して(1人で)生きていけるということはありえないと思います。他の人と係わり合い、助け合う中で生きていくのが人間だと思います。
そういう基本認識の上で、社会に対しgiveがtakeより多いか同じなら、一応自立とみなすのでしょう。
しかし一見自立している人に見えて、周囲の状況や環境が変わると途端にtakeのほうが多くなる人もいると思います。もしかしたら、どんなに環境が変わってもgiveが大きい人なんてめったにいないのではないでしょうか。そういう人間には、私はなかなかなれそうにありません。
自立にも人それぞれ基準があると思うが、やはり人と違う人生を歩んでいる以上、同じ意見を持つ人は周囲に多くは無いものと思う。人それぞれ、いろんな事情でいろんな状態にあるが、自分の足で立っているというのは、最低限の社会貢献ではないだろうか。寝ている人を立たせるのは至難。座っている人を立たせるのでさえかなりの労力を必要とする。しかし、立ってるなら、その人を歩かせるのは意識付けだけで出来る。さらに走らせるのは時間がたてば出来ることもある。難しくはない。逆に、走っている人を立ち止まらせるのはこれもまた至難。まず、捕まえなければならないが、転ぶでもしない限り、捕まえるのも難しい。人それぞれ自分の今の状態が立っているのか座っているのか、歩いているのか走っているのか、それとも寝ているのかは判るはず。それすら判らない人であれば、まだ物心付いていないということだ。人生いろんなことがあるが、落ち込むことがあったとしても、せめて、誰かに寄りかかったり何かに掴ったりせず、自分の脚で立っていたいと思う。たとえ他者とは歩く方向が違っていても。そうでなれば、自分ではなくなる気がするから。
荒治療ですが、このくらいしなければ、目を覚まさないのが現代社会なのではないでしょうか?
また、税金を払っている以上、国に頼るのは当然ですし、国が国民を守るのは、当然の義務です。
コメントを読んで感じる事は、「自立」していないこの現象が、日本だけの風潮のように感じる方々が多いようですが、実際、ドイツに暮らし、欧州の国々を見ていると、何とま〜、そこまで国が個人の生活に口を出し、幼稚園児の国民の手を引いていかなければならないかと思う事が多々あります。 こちらから日本を見ていると、結構、自立した社会のように見えますが?!
あなたが鞄ひとつで北海道に降り立ったときに、いろいろと生活の用意をしてくれたボランティアの人のことを。
彼らは政治家でも何でもない、一般人だったはず。その彼らが、助けても自分たちには、ほとんど何のメリットもな中国からの留学生にそこまで親切にしたのはなぜだったのでしょうか? あなたがとても優秀で将来出世するから、助けておいてあとで利益を得ようとしたのでしょうか? 彼らが非常に金持ちだったから、貧乏な学生に施しをしてあげるつもりだったのでしょうか? 違うと思います。彼らは純粋に志をいだいて日本にきた若者を助けることで、「日中の架け橋」になりたかっただけなのではないでしょうか? 口に出すにしろ、出さないにしろ、そうした小さな行動には、一般の日本人の「日中の架け橋になりたい」という気持ちがきっとあったと思うのです。
そうした彼らの態度は「偽善的」でしたか? 社会貢献や日中の架け橋というのは、何も高邁な話ではない、小さな行動でも可能になるのです。そう思っている日本人は多いと思いますよ。道路にゴミを捨てない、散歩させている犬の糞は飼い主が始末する。家の前の公道の掃除をする――そういった小さな行動だって、日本人にとっては「社会貢献」なのです。
中国人は、こうした小さな社会貢献には、まったく関心を払わない人ばかり、と思うのは偏見でしょうか?
私は宋さんは「言う前に自分でやったらどうでしょうか」と訴えているように読み取りました。そうは思いませんか?
→いつまでもあると思うな、親と金
・「親」は「会社」に依存する。
→いつまでもあると思うな、会社と終身雇用
・「会社」は「日本」に依存する。
→いつまでもあると思うな、経済成長と産業規制
・「日本」は「米国」に依存する。
→いつまでもあると思うな、米国景気と安全保障
という構造になっていると、私は思います。結局最後はアメリカかよ?となるのですが、支えて貰っている上位が崩れれば、その影響は一番下まで拡がるのではないでしょうか。
サブプライム問題で世界経済がぐだぐだの中、日経平均も1万3千円を割れて「大丈夫かな?日本」という感じが拡がって来ております。
従って「自立せよ」等と言われなくても、誰しもが「自立しなくては生きていけない」時代が来るかと思います。