小さい頃よく先生に「人の批判を素直に受け入れなさい」と教えられます。大人になっても先輩や上司に同じことを勧められます。しかし、なかなか素直に受け入れられないものです。特に批判する人の中に「俺の話を聞きなさい」と言っている人も少なくないので余計に反発してしまいます。
立場や文化背景の相違に関係なく、成功した人のほとんどが他人の批判に耳を傾けるタイプの人です。これには簡単な理由があります。それは成功の直接原因は常に客観的だからです。成功するには努力も重要ですが、自分の希望的観測に沿ってがむしゃらに頑張っても成功にはそれに応える義務がないからです。
批判を受け入れない人の多くは逆に批判が大好きです。昇進が遅れると会社を批判し、投資に失敗するとマーケットを批判し、人生に不満があると社会を批判します。
批判精神は大切ですが、それには「批判する精神」以上に「批判される精神」も持ち合わせないと歪な批判精神となります。自分を常に正当化しておきながら他人を批判する人生は歪な人生になるのです。
この間20年ぶりに北海道の友人と再会しました。それなりの大学に進学し、社会問題にも関心を持っていた彼はなんとフリーターになっていました。再開の喜びを味わう暇もなく、彼は親や社会への批判を展開し始めました。信頼関係を頼りに私が彼にアドバイスしたのはその批判を自分にも向けてみることでした。
年をとっていろいろな苦労した今、私はやっと批判を受け入れる旨みを味わえるようになりました。自分の知識の狭さを痛感し、判断の危うさを恐れるからこそ他人の批判が欲しくなります。あまりにも欲しいから悪意のある批判にも反論したくなくなるほどです。反論すると他の悪意のない人までも批判をやめるのではと心配するからです。
人の批判ばかりを気にして自分を見失うと恐れる人がいますが、そのような人は批判を受けなくても自分を失うのです。自分を持ちながらも新たな自分に到達するには他人の批判を参考に実践を重ねるしかありません。受け入れることは自分の中で消化することであり、従うことではありません。
他人の批判を聞いて成功した場合もあれば失敗する場合もあります。しかし、聞いて採用した以上それはもう自分の意見、自分の責任だと真摯に納得すべきです。なぜならば、自分の主観で判断しても同様に成功と失敗があるからです。他人の批判が当たっていない時には、自分の判断もよく間違うことを思い出せば感情的になりません。
批判を受け入れることは新しい自分と出会うための船出であり、批判する人はその船を岸から海に押し出してくれます。どのような航海になるか、どんな自分に出会えるか、それは自分次第であり、緊張しながらも楽しむものです。
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批判を受け入れる力というのは、自分で判断する力がどのくらいあるかということだと思います。判断力が無い人ほど批判を避けようとし、「気に入る」「気に入らない」を基準に決断を下します。
判断力が無い状態の人に「批判を受け入れる」余裕がないのは当然ですから。
下記は興味深い視点と感じました。
「人の批判ばかりを気にして自分を見失うと恐れる人がいますが、そのような人は批判を受けなくても自分を失うのです。」
「宋文洲語録」としてどこかで引用させていただくかもしれません。
凄く納得の出来る内容でした。
未だ、批判を受け入れるだけの器を自分が持ち合わせていない現状を痛感しています。
自分を磨く努力をしてみます。
ありがとうございました。
「客観性とは、一種の謙虚さなのかも知れない」という感想を持ちました。
また、周りから突出していればいるだけ批判は大きなものになってくると思います。
「成功する人」とは「批判=雑音」と考え、そんなものは無視しているかと思います。
向かうべき方向が正しければ、自分自身に正しいという信念さえあれば無視して進めるはずです。
成功する人は批判を受け入れているのではなく、受け流しているのが本当の姿だと思います。
聞き流しているので批判を聞けるのです。
批判に対する当事者意識が薄いため、批判を客観的意見として聞き、それを糧に出来るのです。
逆に批判する人は、自身がそのような経験が無いのだと思います。
批判に逆らって、周囲の反対に逆らって、自分の信念で進んだ経験が無いのだと思います。
だから、自分とは異質な他人を見ると批判してしまうのではないでしょうか。
周りと調和できていない人がいれば批判し、
悪くすれば、自分と調和できない周りを、社会を批判するのではないでしょうか。
そのような人は、もし自分が批判されると、批判をそのまま受け止めて、
その批判に反発し、そして弱気になり、批判など聞きたくないと思ってしまうでしょう。
もちろん人間なので、100%そのようなロジックでは行動できません。
強い信念を持った人でも弱気になることもあります。
ただ大きな枠では、下記のように考えていいかと思います。
批判を聞く人=他を批判しない人
批判を聞かない人=他を批判する人
おそらくこの北海道の友人の“批判”は,ある組織や個人において改善できる点を正確に指摘した,ということではなく,
自分の感情的価値判断をもとに,それらに対して“変われ”と命令しているのでしょう。やめろという,願う,頼む,どうせ無理と諦める,のいずれも相手に○○してくれ,と命令しているのは同じです。
後者の場合であれば,感情的価値判断自体には聞くべきものがあるでしょう。あとの命令は,“無い物ねだりの他愛のないおしゃべり”のようなものです。
(自国中心)で自分の狭い範囲での金にばかり執着してる人が多すぎます。うまく伝えられませんが、義が無い社会になれば最後は殺し合いですから、ぜひとも宋さんは自身の考えをもっと大きく発信して頂きたいです。できる事があるならお手伝いしたいくらいです。応援してます。
メール配信ありがとうございます。毎回届くのを楽しみにしています。なるほどと関心したり、心を打たれたりしながら拝読しています。今回のメールを読み、二代目後継者になる私と創業者の父との親子関係について考えさせられました。肉親であればこそお互い遠慮ない言葉で批判しあってしまい、感情的になってしまうことが時々あります。僕も宋さんみたいに、誰からの批判も一旦は受け入れる、または受け入れようとするように努め、成長の糧にしていきたいです。そして父と共に良き経営者なっていきたいです。
今回の「批判を受け入れる」というのは、自分自身の状況を思い返すいい機会になりました。その中で感じたのは、メルマガの中にもある歪な批判が余りにも多く、それらは主に状況を正確に把握しようということなく感覚的に発せられるということです。
端的に示されているのが、ここ1ヶ月の朝青龍の一連事件です。休場して、母国で少しサッカーをしただけでこれだけのことになっているというのが、確かに軽はずみな行動とは言えますが、客観的に見ると過熱しすぎに思えます。
ちょっとしたサービスで短時間やっただけなのか、セミプロ相手に激しくプレーするようなものだったのかというような事があまりよく分からないのです。
国会議員が国会を休んでサッカーをしていたというのとはまるで違います。大相撲の激しいコンタクトと、草サッカーとは全く危険度のレベルが違う話ではないかと思います。いくら健康な私でも大関が相手で本気で取り組まれると生命の危険もあると思います。本当に「著しく問題な行動」であったかどうかの判断材料には乏しく思えるのです。
加えて批判をする時の姿勢の問題も同じように見て取れます。モンゴルから帰国した時に「サッカーは楽しかったですか?」と投げかけたり、成田から出国するときに「もう帰らないのですか?」と問いかけたり、品性のない発言も受け入れられてしまったりします。
長いものに巻かれたら、後は「何でもアリ」に近い状態になります。
そういう中で、どの批判を組み入れるべきかという判断がとても大切になると思うのです。歪な批判であっても正面から向き合って受け入れるべきではないと判断する。必要であれば、感謝して受け入れる。
また、その前段階として、本人に直接かつ素直に批判出来るような人柄でないといけません。普段からそういう心がけが大切なのだと思います。他人にも正しい批判を出来るようにも努力するようにしたいと思います。
これからもメルマガを楽しみにしています。
今回の宋さんの、批判を楽しむ、というコメントはさらにそこから一歩前にでたものですね。 とても前向きで気持ちが楽になりました。
最近、ある立場になり、批判、反対意見を受け入れることと、自分の信念をしっかりもつことが、相反することはじゃない、ということについて、ぼんやりと何らかの感情が生まれていたのですが、それが言葉では言い表せませんでした。
このメールですっきりした気がします。
いつも論長論短を楽しみに読ませていただいております。配信有難うございます。
批判を受け入れる事の重要性は、グローバルに展開する国際ビジネスの中でも、当然同様ですね。人種、性別、国籍、文化、習慣、国益、各現地法人と日本の本社の利害など、様々な条件を超越した人間関係の中で、他人の批判を受け入れられる関係が構築出来れば
理想的だと思っております。
現在、自分が勤める会社で、グローバル・アクション・コミッティーと言う日本、シンガポール、マレーシアのメンバーからなる小部隊を編成して、グローバルな社内ネットワーク強化を図っています。中国、台湾の仲間をこれから巻き込んで行くべく行動を起こし始めた所ですが、結構難しさも感じています。今回の宋さんのメッセージにはとても勇気付けられました。
今後とも楽しみに拝読させていただきます。
とむ
子育てと自分のキャリアを比較するとはいかがなものでしょうか。子供は、”物”ではないと思います。自分のキャリアは惜しいしといいながら子育てをしている。また人に預けてその間仕事をする。生活がままならないというのであれば仕事をするのは仕方がないかもしれませんが、”キャリア”のために仕事をするというのは、そういった人にとって子供は”アクセサリ”みたいなものとしかみていないのでしょう。子供がかわいそうだと思います。
社会性を身につけるという意味でのお稽古ごとや勉強であれば程度を考えて行うのは子供にとっても良いことだとは思いますが、今の社会での猫も杓子もお稽古ごと、塾というのは、逆に子供をますます駄目にしていくのではないでしょうか。子供時代に本当に必要なものとは何でしょうか。
正直なところ、私には人を批判してやまない傾向があります。調子の悪い時にその傾向が強まるので実に厄介です。
理屈のうえでは、人や社会に批判の矢を向けてみても、自分にとって益のないことは分かっていても、発想の癖は容易に変わりません。気が付くと、誰かがこうだからとか、世の中が悪いとか、つい考え始めていて、また同じバカを繰り返していると、自己嫌悪に陥ることがしばしばあります。
人は他者との関係性においてしか自分を確認できない、そしてある部分は自己を正当化しないと生きていけない。ただ、同じことが他者の中にも生じているので、結局は自分の正当化だけに没頭してしまうと何も見えてはこない。
こういうことを、自分も、そして周囲も理解し、折に触れて注意しあえると、前向きな楽しい人生につながっていくのではないでしょうか。
宋さんの言われることの一つは「人の批判に真摯に耳を傾け、客観的に自分を見つめて改善すべきを改善することの重要さ」ということと理解しました。これは私の考え方と同じであるとともに、私も社内の研修においていつも参加者に投げかけていたことでした。そして自分は何時もそのようにしていると信じていました。しかし、ある時、自ら企画した多面調査(職場内での360度調査)を受けて見て愕然としました。無記名での部下からの自分に対する評価は散々な結果であり、「部下の話を聞かない」「部下の意見を真剣に取り上げようとしない」などでした。この結果を見て、最初は反感がこみ上げましたが、一晩冷静に考え自分の具体的行動事実を振り返って見るとともに、結果を部下にオープンにして意見を聞くことで初めて「自分がいつも話していることと、自分のとっている行動が如何にかけ離れていたか」に気づくことができました。この経験から「わかっていることとやっていることに違い」に気づくことの重要さを痛感した次第です。「わかっているが自分はやっていない」人を増やさないためには、自分の行動を常に客観的に振り返る習慣(日記など)を身につけることが必要と思います。
恥ずかしいことに、自分の出る芽を抑えた上司を批判せず、その経験から他人を支配する欲望に近寄ることは身の破滅であると、謙遜になるための貴重な経験が与えられたことに感謝できるようになったのは、定年退職後のことです。
若いときにうまくいった人の多くが、謙遜になれず、不満を抱きながら退職しました。
仕事で人を評価する際には、評価をする者をさらに評価するシステムを準備しておくことが重要であるとの認識を忘れないで欲しいと思うことがあります。
すると、感情を押さえるのに大変でした。
しかし、最近は、気を楽にして全てを受入れるように努めています。・・・そうす事により、精神的に落ち着きが出来てきました。今日は、いい失敗をした。あのアドバイス身につけようー。と前向きに捉えるようになり、反発より、まず素直に受け入れる精神が身に付いて来ました。お陰で・・今年やっと、シングル入り出来ました。
(足掛け25年のゴルフ道)
自分とは違う考え方に出会えるので、とても楽しみにしています。
今回の「批判」については、自分も思うところがあります。
自分には自信がありません。そのため、やることなすこと、人の意見に敏感になります。特に批判されると、かなり落ち込んだり、自暴自棄になったりと落ち着きがありません。
「批判」は時に「自我」を崩壊させられる武器に思えます。だから、批判を受け入れられないことがよくあります。
「自分の判断」を肯定できる自信がない「自我」。こんな情けないものでも、崩壊させてしまったら、なにを自分とすればよいのか。
だから、「批判」は怖いのです。
「批判」を受け入れ、自分の糧にできるようになるには、「批判」に耐えられる「自分自身」があってこそなのですね。
それには「実践」あるのみ。
まだまだ、大人になるには道が遠そうです。
また、次回も楽しみにしております。
「批判されるのも批判精神」ん?これは中々面白い言い方だなと、感心いたしました。
私も歳を重ね半世紀を生きてやっと、人への批判、人からの批判について考えられるようになりました。若い頃などは人の意見に耳を貸さず、大したことも出来ないのに、批判などされようものなら、その人は大嫌い!口も利かないという「おバカ者」だった私です。
そんな私でも最近気がついたのは、批判するにもされるにも、それぞれ責任が付きまとうという事です。私が他人からの批判を受けるときには、先ず二つの選択があります。一つは見ず知らずの人からのもの。この場合は、その批判が客観的なものなのかどうか良く考えて見ます。ほとんどがごく個人的な「クレーム」であることが多いですね。と言うより見ず知らずの人からの批判は経験がありません。(私も趣味の立場では不特定多数の前に立つことがあるので、批評の対象者であると思えます)
もう一つは知人からの批判ですが、やはりその人が言いたいことの真意を客観的に良く考えて見ます。その人が何をバックボーンに批判しているのか、その言葉に何らかの責任を持って言っているか等、私にとって前向きの批判であれば、内容に拘わらず聞くように努めています。
批判をする場合ですが、陳腐な言い方かも知れませんが、相手の幸福を前提に批判することを心がけています。また、反論があった場合には、言いっ放しにせず、反論を良く聞き、前向きに話が出来る批判こそが、責任を持った批判ではないかと思います。
世の中には評論家という職業の人がたくさんいますが、評論のための評論、批判のための批判ではなく、他人の批評をする職業に誇りを持っているという評論をして欲しいなと思います。
次のメルマガを楽しみにしております。
いつも興味深いメールマガジンをありがとうございます。
今日の内容は、特に身近に感じられました。
自分に対する批判を冷静に前向きに聞けるということは、
客観的に自分を見ていると同時に、自分を認めて
受け入れているということでもあると思います。
そして、すべて自分で決断したのだという潔さの下に
自分を力試ししていることでもあり、
自分の成長を楽しむことでもあると思います。
…という風に読むことができた自分は、以前より少し成長したのかも…?
などと自画自賛しながら楽しく読ませていただきました。
また次回を楽しみにしております。
ありがとうございました。
私自身は他人の批判はなるべくしないようにしています。
なぜなら
自分も批判されたくないからです。
他人にすることは自分に返ってきますので。
批判のほとんどは
自分の好みと思い込みです。
ただ、自分と意見が異なる人がどういう考えを持っているのかを知る事は
成功のためには大事な事だと思います。受け入れるかどうかは別の問題ですが、批判する人にも彼らなりの価値観があることは確かです。それを認める器の広さも必要かなとは感じます。
「3歳の子供の意見でも正しければ取り入れることができる人間に」と話をすることもありますが、違う角度から見るとこれも他人に批判にもなっているのかと省みることが出来ました。
日々是向上。ご意見を役立てます!
先回に続いて今回もコメントさせて頂きます。今回の内容も思わず膝をたたいてしまうほどでした。私も若い頃は人からとやかく言われることが大きらいで、上司にも反発したりしてしまいました。家庭でも家内に批判されるとムキになって反論していました。その頃の自分は余裕がなかったと思います。自分は精一杯やっているのだから、ああだこうだと言わないでくれ、そんな暇がるのならあなた自身のこと反省したら?という具合でした。結果は仕事も家庭もうまくいっていなかったと思います。
私は来月50歳になります。孔子が言った「知命」つまり天命を知る歳です。残念ながら天命どころか、自分は今後どう身を立てていくかすら定まっていません。時にそんな自分がとても情けなくなります。
今振り返るともう少し他人の意見や批判を聞いていたらなあ、と思います。
批判を受け入れるには度量が必要だと思います。基本的には自分自身に自信があり、心にゆとりがないとなかなか受入れがたいと思います。
まだまだ続く残りの人生、素直に批判を受け入れることのできる度量を、なんとか身に着けたいと思います。
批判される精神・・・大事ですね。
私はまだまだ批判されることを恐れている気がします。それには勇気が必要ですから。
私の嫌いなタイプは、批判を嫌うが他を批判する中小企業の社長さんたち。
逆に、好きなタイプは、批判を成長のプロセスと捉え、いつも前向きに四六時中考えているタイプ。こういう人は、どんな小さい成功でも一緒に喜んでくれたりします。
批判を受け入れる精神を私も今日から勇気を持って培っていきます。
ありがとうございました。
私は未だ未だダメです。
批判を素直に受けとめられる人になりたいです。
批判ばかりの自分にも疲れてます。肯定的に生きられる自分を模索中です。
実は
私の近くには以前,
嫌みや皮肉を言う人がいました。
本当にいやでした。
たとえば
10の内,9正しくても
1のアラを
つついてこられた様に感じました。
あるとき
9の正しさを主張するより
1のアラを直して
嫌みや皮肉を言われる隙を与えないようにしようと決めました。
そして今
想うことは
人生は
たとえ
100の内,99正しくても
1の悪に対して
100%の責任を負うということです。
できれば
「批判」は遠慮したいです(^_^;)
でも
「批判」される「自分」であるのだから
はやく
変わりたいとおもいます。
たのしく読ませていただいています。
さて、「批判」についてですが、私は、批判されない仕事はたいしたものでないと考えています。
@ 参考とする批判
自分の考えても居なかった方面から解析して、批判してくれるもの・・・ありがたく拝聴し、自分の血肉にします。
A 批判のための批判
多くは、「ジェラシー」からくる批判で、これに対しては、なるほど、こう言う批判(評価)もあるか、と、思うだけです。
私は、製造業で、働いていますので、「新しいことやっても、批判されるし、やらなくても批判される。それなら、自分の信ずる事をしていこう」と考えて暮らしてきました。
これからも、この考えの基で暮らしていきます。
・成功者は客観的
・批判を受け入れることは、消化することではなく、消化すること
・他人の批判が気になる人は、批判がなくても自分を見失う
どれも、思い当たることばかりです。
印刷して手帳に入れ、読み返すようにしたいと思います。名文を有難うございました!
妙な表現ですが、批判を攻撃と解釈するのではなく、「一種の解釈」であると解釈することで、批判を受け入れるようにしています。
このコメント自体がまた、たくさんある解釈のひとつに過ぎませんが。
「批判を受け入れることは新しい自分と出会うための船出」を読んだとき、目のあたりがすーっと爽やかになり、クリアに感じました。自然の気持ちよい空気を深呼吸したときのような。
最近、「難しい人に出会ったら、それは、自分の可能性が刺激されている」という話を聞き、今回の宋さんのお話も心にとめ、がんばって行こう〜と明るい気持ちになりました。
さて、今回のお話は私にとってとてもタイムリーでした。
私はとあるヴォーカルアンサンブルに所属しているのですが、ついこの間の練習中、ある人が集中的に注意を受けていました。練習が終わるや否やその人が私のほうにつかつかと歩いてきて、私に対する批判を始めたのです。その人も感情に任せて話されているのと、私自身なんでこの人に言われないといけないのか、という反発があり「あなたの言っていることは一言も理解できない。注意を受けたのはいったいどっちだったのか。」と反論して気まずく帰りました。
家に帰って冷静になり、さて、よりよい音楽を創るという一番大きな命題に対して、今日の私はどうだっただろうか?と自問すると、やっぱりもう少し耳を傾ける余裕があっても良かったのではという結論でした。
今回の宋様のメルマガを読んで、やっぱりそうなのか、実るほど頭を垂れる。。。ということなのだろうなと思いました。
しかも人の意見を聞くということは、人に流されるとか、人の言うとおりにしかできない、ということになるわけではないのだと説明していただき、人の批判を受け入れるということに対する自分の枠組みが大きく変わったように思います。
ちなみに、問題の相手とは次の練習でお互いに穏やかに話をすることで、ひとまず解決しています。
長文失礼いたしました。
気を付けよう。話は変わりますが、最近言葉が単に符合になっている自分に気が付きました。
私は大学生ですが,自分のサークルについていろいろな批判をしてきました.しかし,批判しているときほど批判を受け入れられていないということには最近気が付きました.
批判しているときはヒートアップしているます.そこから時間が経ち,落ち着いてこないと「自分が批判した状況」の中で自分がどのように行動すればよかったのか見えてきません.
完璧な環境は無いのでいつでも批判することはできるのだと思います.大事なことはその環境の中で自分がどのように行動するのかということだと思うのです.
しかし,そのように冷静になるまでに長い時間がかかってしまう.それが,なんとかならないかと思っています.
いきなりですが、うわ〜まいった、と思いました。たった今まさに仕事で、私が情熱を持って取り組んできたことを、周りの人たちに批判されふてくされて!いたところです。
私よりもその仕事に関しては知識も経験もある人達ですので、冷静になって考えてみれば私のやりかたが間違っていたと思うのですが、素直に受け入れられず、「せめて仕事への意欲くらい評価してくれればいいのに。」とか「転職しようかな。」とか、感情的になっておりました。恥ずかしいです。
今回のお話は、本当に心に響きました。普段から人には「失敗は成功のもと」なんて言っているくせに、自分のこととなるとこんなにプライドの高い小さい人間だったのかとよくわかりました。
宋さん、気づかせて下さってありがとうございます。宋さんほどのかたでも、ここまでの境地にいたるには、数え切れないほどの批判を受け、葛藤し、自分のプライドと戦いながら批判を前向きに受け入れる心を培っていかれたんだと思います。私なんぞはまだまだ。心を新たにこれからも仕事がんばります。
なるほど、そうかもしれません。批判されないのが一番いいと教科書には書いてあるのでしょうけど、そんな人はこの世には存在しませんよね。
尖がったところに居れば居るほど、孤独でここでいいのかという迷いが出てきます。他人の意見、特に批判は混じりっけのない意見です。誉め言葉などはまったく役に立ちません。(嫌いな人はいないため私も使用しますが・・・笑)
私は言葉がキツイせいで相手に誤解を与え、傷つけてしまう事が多いです。これって、傷ついた側にも原因があるのかもしれませんね?(笑)
ともかくまずは尖がらないと批判は受けません。人と違うことをしなくては!
次の記事も楽しみにしております。
メルマガいつも楽しみにしています。その内容はもちろんですが、読者のコメントを見ていると同じ文章を読んでもこんなに受け取り方が違うのだなと非常に興味深いです。
今回の批判精神で印象に残ったのは、『成功の直接原因は常に客観的』というくだりです。客観的であるためには他人を認め受け容れられるだけの『自分』というものが必要ということになり、自分次第ということは前回書かれていた品格ということに繋がっているのだなと理解しました。
いつも考えるきっかけを与えて下さりありがとうございます。
最近,そうした批判に心を痛めていたので,今回のお話は身に沁みました。
自分の選択以外にも当然道はあるわけで,その善し悪しは表裏一体,一長一短と思っていても,頭ごなしに否定されたり嘲笑されたりすることには,多かれ少なかれいやな思いをすることもあります。
厄介なのは,選択の成否がすぐに決着するとは限らないことです。歳を重ねるごとに自己責任の範囲が自分という枠を越えて他人を巻き込むようになったとき,その選択の責任はどんどん重いものになっていきます。
しかし,自己責任で選択する以上,どんな批判をも咀嚼しつつ受け入れられる自分でありたいと改めて感じました。そうすることで自分の選択の精度が上げられればいいと思います。
私も、以前に(数年前)上司から手厳しい批判を受け、退職勧告されたことがありました。
自分としては、主張したいこともありましたが、批判される面(新しいチャレンジに積極的でない)もあるのかな、と勉強会等に参加し、若い人と触れ合う中で、より積極的な生き方ができるようになったと思います。
とは言え、その当時、「チャレンジ精神が足りない」と批判していた上司が、「思いつきで営業を続ける中で実績が出ずに退社」とか、「客先の意見を聞かずに、無茶な対応をして、客先から出入り禁止になる」とかの状況があり、あの時に批判していた人達自身も反省すべき部分が多かったのでは、と思うこの頃です。
ちょっと、自分の体験と重なる面があるように感じて、メールしてみました。
その点、科学者はラクですよ。何たって、真理が一番エラいんですから。批判する側よりも真理が偉い。批判される側よりも真理が偉い。大教授よりも真理が偉い。へっぽこ助手(昔の私です)よりも真理が偉い。
…で、真理を指し示す者が結局一番偉い。単純で、いいです。
ただ、ビジネスは…。まさか、儲けたヤツが偉い、とはならないでしょうし。
感覚的ですが その通りかもしれないと思いました。しかし、批判というのは 批判される人、モノがないところでされるのが大半だと思います。面と向かってしてくれる友人や同僚に囲まれていてこそ「健全な批判精神」が養われる。そう考えると、今の日本では「健全な批判精神」が養われる精神土壌がなくなっている気がします。
宋さんが、おっしゃるとおりで、批判を受け入れて来なかった自分に対して、批判してくれる回りの人間が遠ざかってしまっている気がします。
また、耳障りのよい意見ばかりが、空虚に響いていることを、コメントを読ませていただき、痛感したしだいです。
人間関係が希薄になっているこの世の中。あえて、批判を受けられるようにするためには、目立った行動をとるのが一番の方法でしょうか。仕事でも、そこそこの成績を上げていると、表立っての批判を受けることが、あまり無いような気がします。
それは、回りに恵まれていないと理解し、新しい環境を求めるべきなのでしょうか。
らしいコメントだと思います。
世の中には「裸の王様」がおおいですよね。
批判も消化して自分の責任として決断する。
成功、失敗の結果は泰然とうけとめる。
何歳になっても、どのような立場になっても
素直に意見を受け止めることは必要ですね。
議論できない組織はいくら有能なリーダーが
引っ張っても発展は出来ないと思います。
批判の内容で批判する人を判断してしまうことがあります。
相手のことを思った批判はすばらしいですが、自己満足の批判は時に相手を殺すことにならないでしょうか?
まだ私には余裕がないのかもしれませんね。
批判を受け入れることは新しい自分と出会うための船出であり、批判する人は
その船を岸から海に押し出してくれます。どのような航海になるか、どんな自
分に出会えるか、それは自分次第であり、緊張しながらも楽しむものです。
\\\\\\\\\\\\\
なるほど、そうなのですか批判に対して今更死ぬまで変わるはずが無いと反発してました。
ここのところ極親しい数人しか批判すらしてもらえなくなってました。批判を楽しむ気持ちになりました。いつもありがとうございます。
内容は、解りやすく助かります。
人の本質を見てらっしゃるので自分自身と冷静に比較できます。
読むだけで終わらないように今後に生かせればと思っています。
然るに「批判」を素直に受け入れてしまうと、自信を失い、自己同定を失い、ついには闇に陥ってしまうのではないか という潜在的な不安が程度の差こそあれ、誰しももっているものだと思うのです。 批判を受け入れても、立脚できるという、自信の範囲内にいるときは、聞き入れる準備ができていることになるが、その自信がもてないときはどうかという問いでもあるのかと 思います。即ち、人間の器ということになるのだろうと思うわけです。
その器をいかに広げていくかということが、人生のテーマなのかもしれません。「一切が空である」とする 悟りの境地を目指そうとする教えも そういうことをいっているのかもしれません。自己を滅してまでも、人々全体への批判をすべて受け入れたのである とするキリストの境地も 究極の着地点なのかもしれません。人生は、批判に対して素直になれる境地を求めての永い旅なのではないかとも思う次第です。
「批判」をしてもらえるということのありがたみが分かる能力、「批判」を「批判」として 捉えることのできる能力を身に着け、磨いていくということなのかもしれません。
批判をする側もされる側も最後は やはり、「慈悲」や「愛」に落ち着くのではないかも思います。やはり、「批判」は「慈悲」とどこか連関していて欲しいものです。
今回の批判に対するコラムも、非常に考えさせられました。
人の考え方とは非常に曖昧なもので、同じ言葉でも人によって薬になる時もあれば、毒になるときもあります。ポジティブに受け止めるか、ネガティブに受け止めるか。特に批判に続くアドバイスがないものについては、そこに当人に対する愛があるのかどうか、判断が難しいものです。
批判はあくまで結果に対する評価であり、その評価は甘んじて受け入れるべきでしょう。しかし、あまりにも愛のない批判は排除すべきと考えます。それは批判ではなく、非難です。単に非難するだけの他人の話に、価値があるとは個人的には思えません。
自分という人間を育てるには、自分だけでなく周りの人々が必要です。様々な話を聞き、様々な考えを取り入れ、咀嚼し、自分の糧とする。しかし、非難ともとれる批判を受け入れるには、私はまだまだ経験が足りないようです。
今回の批判精神についてですが、本当にそうだなと思いました。
‘他人の批判を聞いて成功した場合もあれば失敗する場合もあるが、しかし聞いて自分が採用した以上はもう自分の意見、自分の責任だと真摯に納得すべき’という言葉が過去の辛い経験で心に沁みました。
まだまだ私は宋さんの100分の一も苦労してません。新しい自分に出会えるよう勇気と素直な心を持って日々精進していきたいと思います。
※テレビ東京の番組見ました!これからもどんどん宋さんらしい歯切れのいいコメント待ってます。お身体ご自愛ください。
>小さい頃よく先生に「人の批判を素直に受け入れなさい」と教えられます
字面の問題かもしれませんが少し違和感がありました。
批判=押し付け、否定(断定)的
意見=提供、客観/主観的
勝手に文中の「批判」を「意見」と読み替えましたが、もしかするとあえて「批判」を使われていたのでしょうか、気になりました。
体調が悪いときや余裕がないときに他人からの批判を聞くと血圧があがりますしね
批判慣れしていないせいなのか、”正しい”批判の仕方、され方を習ってきていないせいなのかはよくわかりません
ただ、批判する側にもそれなりの根拠や覚悟が無いと、正しい批判はできないように思います
やはり批判はするのもされるのも難しいと思ってしまうのですが、他の国の人たちは、批判することやされることにあまり抵抗感がなかったりするのでしょうか
そんな彼にこの記事を読ませたら、少しは気づくだろうか?自分が彼の立場で、上司からこの記事を見せられたら素直に読めるだろうか?
考えを進めるなかで、自分はどうなんだろうか、素直に批判を受け入れるだけの度量があるだろうか?自身も人から批判されることが大嫌いで怖いのではないか?失敗を責任転嫁していないか?・・・
彼に読ませる前に、まず自分を見つめなおして見たいと考えます。
そして、自分に素直な心を持つことだと思います。
私はこの夏、北海道を6日間バイクで一人旅をしてきました。
免許は2年前(54歳)に取りました。
キッカケは奥さん(50歳)が、「バイクに乗ってみたいと言ったことから、いろいろありましたが、自動車学校へ行き二人とも取得しました。
それまでの私はバイクには興味どころか、バイクに乗ること事態を批判する側の人間でした。
やってみて分るを感じております、今でも怖いのですがバイクを愉しむ人達の気分が分るのです。
批判を受け入れることは新しい自分と出会うための船出であり、・・どのような航海になるか、どんな自分に出会えるか、それは自分次第であり、緊張しながら愉しむものだを56歳にして体感しています。
今回の北海道ツーリングで人生”より道”も必要なことだと感じた次第です。
批判を受けるとは、自分に無いものを他人からアドバイスされたと思える「寛容な心」をこれからも持ち続けたいものです。
宋さんの記事は、いつも「気づき」を与えて下さっており、大変ありがたく感じている一人です。
その「気づき」をどう消化するかは、自分次第ですが‥‥(^^;
これからも、読ませて頂きますので、今後ともよろしくお願いいたします。
「他人の批判が当たっていない時には、自分の判断もよく間違うことを思い出せば感情的になりません」
この言葉に、ハッとしました。
他人の言葉に、まったく耳を傾けないのは論外ですが、同時に「他人の言う事に左右されすぎる」のもまた、精神の成長にとってはマイナスになるのですね。
世間を見ると、「他人のいう事には聞く耳を持たない」か、逆に「他人の意見に左右される」かの、両極端に陥っているケースが、周りを見渡すだけでもなんと多いことかと、痛感させられます。
心境の問題でもあると思います。自分の限界にぶつけながら、しっかり受け止めて、孤独と共に批判を消化するしかないですね。やっぱり他人の批判を受け入れること自体、自分にとって改めて物事の本質を見抜く機会であり、心の容量をさらに広げる機会でもあると思えばいいかなと。
批判することと批判されること、いずれにしても物事を本質に迫る議論だけの話しだと今頃気づいたことです。批判されることによって事情の本質を見抜ければ、「批判されること」はたいへん良いアドバイスになるわけですね。いくらきつい批判の声を受けても心を静めて、さらに冷静に分析することを肝に銘じます。
自分が客観的だと思っていても検証を受けなければ主観的な要素が多く混ぜていて後から失敗することに後悔しがちだと、しみじみと痛感しています。
宋さん、いつもご啓発ありがとうございました。
まとめ:生み出した観点(自分)→検証(自分参照や他人の批判)→修正した観点(自分が判断する、自己責任)
それは、相手の意見を聞き「そういう考え方もある」と自分自身に言い聞かせることです。
昔は「相手の考えを自分の考えに近づけるにはどうしたら良いか」と考えながら話をしていました。
しかし、相手を変えるのは本当にしんどいことなんですね。
しかし、相手の意見を受け入れると不思議なことに楽になるんです。
そして、相手の意見と自分の意見を吟味し、「より良くなる」にはどうしたら良いかを考え、自分が動くんです。
判断基準は「良い・悪い」です。
決して「損得」や「好き嫌い」で判断しないようにします。
すると相手もだんだん変わってきたりします。
今回の内容とは少し違うかもしれませんが、自分のやってきている事が大きく間違っていないと思えたので、自信が出てきました。
これからも、メルマガ楽しみにしています。
このように見えないブログに書くのは出来るのですが。
その差はなんなのだろう?と考えさせられました。
批判される側は決して気持ちよいものではありませんが、する側だってそうだと思います。お互いの間にはなんらかの問題の火種があり、それを解決するため(気づくため)のきっかけとなるのが批判の根本にあれば、する側される側の差異ってないと思うのです。
批判の根本的な受止め方が、「する」か「される」かなだけ。
順番が「先」か「後」か。
姿勢が「能動的」か「受動的」か。
何事も「正義」を元に深く突き詰めると、そこはもう「にわとりが先か卵が先か」の世界になってしまう。
それより、批判の根本が「解決」であれば、する側される側が手を取り合えるように展開できるし、言葉も柔らかく「本質を伝える」ことに向かうのではないでしょうか。
立場が常にどちらかに偏るのではなく、常にどちらにも行き得るという考え方で物事を捉えられればよいと思います。
宋さんは、「批判を受け入れることは新しい自分と出会う為の船出」と仰っておられますが、私は「批判は私には見えない・他人から見た私であり、私への助言である」と解釈し
むしろ「有り難い」と思うべきだと思います。 決して言い過ぎではないと思います。
自己への批判に耐え、理解を示すことは究極的に正しいと思います。テクニカルなこととも思われますが、冷静なディベートを行い、批判、反批判の訓練を行うことも重要なのかも知れません。日本人はこうした
習練が不足してきたとも思いますが、どうでしょうか。
自分も心に誓っている事が有ります。
人の振り見て我が振り直せ
だれだれに似たくない。あいつは・・・だ
また、それらをうんちくの如く語りたがる人
でも、それは全ては自分 そのものではないでしょうか?
年齢を重ねれば重ねるほどに、自分流の生き方や言動が「正しい」と思うようになり、他人の批判など意に介さないものです。 一般的に、「批判」=「非難」と思いがちであり、したがってそれに反発してしまうのでしょう。
今回の参議院の選挙の結果を受けて、安倍首相は「私の考えが国民に正しく理解していただけなかった」ので、「理解してもらえるように努力する」と、自分の考えが間違っていたのではないことを主張しています。 自分が正しいと思いたいのは分からなくも無いのですが、困ったものです。
かく言う私も頑固な人間ですし、こうして他人の批判をしていますが、自分はどうなのでしょうね。