前回からの続きです。
D文章が多い
内部向けの文章がやたらと多い組織はよくない組織です。議事録、会議録、報告書、日報、メール・・・文章の長い人ほど、多い人ほど仕事ができません。ダメな上司は文章を読み、ダメな部下は文章を書き、作文で時間を消耗して仕事ごっこをやります。だいたい文章が下手な人ほど文章を書きたがるので読まれないのも当然です。
E喧嘩をしない
喧嘩をしないというよりも遠慮がちといったほうがもっと適切かもしれません。会議や打ち合わせの際、遠慮なく上司、同僚、部下に対して言うべきことを言える組織は活力がある組織です。意見といえばよく思い付くのは部下が上司に意見をいうことですが、実は上司が遠慮なく部下に意見を言えることがもっと大切です。部下の意見を大切することはイコール部下に遠慮することではありません。部下の欠点を叱りながらも意見の大切な部分を見抜くリーダーの純心が必要です。仕事上の意見がぶつかっても個人感情にシコリが残らないのはよい組織です。
F社員が急に増える
利益率が低下しているのに社員がどんどん増える会社は弱まります。顧客ニーズが鈍化しているのに組織を肥大化させることはトップのリスク感覚がない証拠です。やがて社員が顧客利益と関係のない仕事を増やすことになります。その過程で顧客ニーズが減少に転じるケースが多いので会社は一気に赤字体質に変わってしまいます。この不況下でこのような組織は簡単に炙り出されます。
G横文字が増える
不思議に外来語を多用する組織は弱くなります。正確な理由は分かりませんが、たぶん誤魔化しが増えるからだと思います。ちゃんとした日本語があるにもかかわらずわざと英語を使うのは単刀直入に問題の本質に触れたくないからです。その姿勢がまずトップから滲み出し、徐々に組織全体に浸透し、やがて誰もが難しい課題、問題のある事業から目を逸らすことになり、企業の潜在リスクが膨張してしまいます。
H意味不明な部署が増える
部署が多い会社はまず分かりにくいです。それは外部からみて分かりにくいだけではなく内部も分かりにくいのです。過剰な分業は社員の事業への理解と参加意識を薄め、顧客との距離を増大させることになります。なるべく損益計算書(PL)に直結する組織の作り方をしたほうがいいと思います。シンプルになるだけではなく、損益への貢献度も一目瞭然です。意味不明な部署が多いことは利益を生む過程と事業が絞られていない証拠です。
P.S.
砂漠のようなビジネス文章の後に一息していただくために、「夕刊フジ」に寄稿したエッセイをお読みください。朝からお時間のない方はここを読み飛ばしてください。
家は心にある
「家」、「ホーム」。東洋も西洋も大変心響く言葉である。「家に帰ろう」の一言は弱った人々の心をどれほど救い、冷えた魂をどれほど暖めてくれるだろうか。
「家」は建物ではない。「家」は家具と内装ではない。「家」は戸籍の構成ではない。「家」は家族同士の愛であり、心の絆である。だから住むところは狭いところでもいい、借家でもいい、頻繁に変わってもいい。太陽が沈み闇が支配する頃、愛し合う家族が集まる。その場所は「家」となるのである。
「家」を実感するのは妻の「お帰りなさい」であり、夫の「ただいま」であり、子供の「今日は・・・」の報告である。いつもの人と一緒に風呂に入る、いつもの料理を口にする、いつもの人とキスする。「家」はその瞬間に心に入り込んでくる。「家」は心にある。
マイホームのためにローンの返済に励む。一軒家のために会社に必死にしがみづく。家から離れないために2時間もかけて通勤通学する。心が納得すればそれぞれの選択が正しいだろう。しかし、もしそれによって心が疲れきっているならば、心の「家」を探してほしい。
子供が大きくなると何を覚えるだろうか。「家」の広さではない。「家」の豪華さではない、「家」の所有者ではない。子供たちが覚えているのは「家」で何を食べ、何を教えてもらい、何を体験したかだろう。
「家」が作られるが、やがて消える。子供たちが自分の「家」を持ち、元の「家」にたまに戻る。愛する人が天国に行き、「家」にはとうとう最後の一人が残る。往時の絆と愛を思いながら天国での新しい「家」を夢見る。「家」は心にある。
(夕刊フジ2009年2月18日「宋文洲の会社員哲学」より)
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組織も会社も社会も、家でありたいと思います。
「弱った会社の前兆」に続いて「家は心にある」と書かれたことの巡り合わせを感じているのは自分だけでしょうか。
心の家は、自分自身であり、家が病むと心が病みます。同様に会社は自分たち自身であり、会社が病むと心が病みます。
人の住む場所、集う場所が即ち家でありますように。
一つだけ申し上げますが、それまでは、責任者も上司も現状打破に、必死の思いで対処しているのです。ただ、なす術の無い結果として出てくる現象で、それまでは手を尽くしていると思います。
いま、多くの会社はその前兆も無くなり、終息へと向かっています。未曾有の経済危機の中、これからもっと多くなると思います。
「家は心にある」・・・まさに、おっしゃるとおりだと、思います。
砂漠のような会社・社会での人間関係に潤いをもたらすのが、本当の“家”だと思うのです。それは「House」ではなく「Home」でなくてはなりませんね。
私も、息子にとっての「Home」を作ってやれるように、残りの人生を懸命に生きなくては、と砂漠を潤すためなのでしょうか、目に熱いものがこみ上げて来ました。
やたら多い書類は選択と集中をする手間を惜しんで記録に残しておくこと。
喧嘩をしないのは、組織の成長を考えずに楽な道を選択すること。
社員が急に増えるのは、単純に人を増やして事態に対応すること。
横文字が増えるのは、見聞きしたコトを単純に流用すること。
意味不明な部署が増えるのは、その場限りの対応をしたこと。
ということなのではないでしょうか。
書類を減らそうと調査すると「無駄な書類はない」と言い、社員を増やさないと「人手が足りない」と言いますが、そういった意見は「現在の仕事のやり方を変えない」というのが前提条件になっているのです。
全く無駄な書類はそもそも無いでしょう。何等かの理由があって存在するはずなのです。書類作成をする人件費以上の効果があるかどうかが問題なのです。(そういう意味で、会計処理上必要だから議事録を作るというのは、とっても無駄なことだと思うのです・・・)
マニュアル化して効率化することで成功した会社は、マニュアル化に溺れたりします。
つまり、現状の状況を確認せずに、過去の経験から離れられない会社がこういう傾向に陥りがちになるのではないでしょうか?
は少し追記が必要だと考えます。私の会社はとにかく文章(議事録、連絡票)が多いのですが、これはそうしないと昨今メールが普及したせいかそれを正式な連絡と勘違いする人が多いため、互いの確認を明確にするための必要悪だと思います。
但し条件は付きます。それは文章は1枚(基本はA4 1ベスト)、最近はメールでこうした議事録、連絡票にサインする方法も増えてきたので、1枚どころかA5くらいが多いです。
まあそれでも昔ながらにやたら長い連絡票を書いてしまう古い型の課長も、まだいますけどね。
前回に続き、弱った会社に関してはまったくその通りだと思います。
ただ、皮肉なことに我々の社長に対しては文章のほうが無難です。なぜなら、意見を述べると途中で「分かってない」とそれ以降は話が出来なくなります。その点において文章であればとりあえず最後まで読んでもらえるので一通り内容が伝わります。
社長が周りにイエスマンしかおいていないために部下は都合の悪いことを隠そうとするのですが、それをコミュニケーション不足だと勘違いして最近はやたらと会議が多くなりました。結局は社長の独壇場なので無駄な時間が増えるだけです。
すべての問題は社長が苦言を受け入れることで解決できるものです。逆に言えばそれができなければ会社は衰退の一途をたどることになるでしょう。
責任追及より問題解決です。これは今の日本の政治においても同じことが言えるでしょう。
さて、家は心にあるですか。いいですね、まさにその通りだと思います。いくら景気が良くてもどれだけりっぱな豪邸があっても、心の帰る場所がなくなればそれはまさに金融危機どころではありません。
それにしても多くの人に気がついてほしいと願うことは、自分だけが生き残るということは自殺に等しいということです。つまり、他人は自分であるということです。
公平であるとか、平等であるとかそういった綺麗ごとを述べるつもりはありませんが、それでも競争社会ではなく、共想社会になって欲しいと願う今日この頃です。
ありがとうございました。
育った、実家は古い長屋で押入れの奥に2つ目の階段のある古民家で、祖父母・父母・兄弟3人の7人家族でした。今になって考えると、日当たり悪く接道狭く、かつ長屋で五右衛門風呂、資産価値とは程遠い家でしたが、家族の笑顔が溢れ子供ながらに素敵な家だと思いました。
中学に入る前に700万のローンを組んで新居を構えました。(家族総出で働き3年でローンを返しました。)
以前の家は売却しましたが、どちらの家の暮らしも心に残るふるさとになっています。
という主義のもと、
レポートを書かない部下、命令・指示を口頭でしては混乱を呼ぶ上司、
に辟易してきた経験があります。
毎回、この「文書が多いのは」という事例が出るたびに
何か観点が間違っているのではないか
と思います。
自分は、公立高校の教員です。
大学を出て十数年民間企業に勤務の後、
教員になりました。
今回の「弱った会社の前兆」、何か自分のいる
学校でも重なる部分も多く、「教育が弱っているな」と改めて感じました。
職員が発言しない会議が毎日の様に行われ、不要な文書が毎日、何枚も何枚も配付されます。
職員間の仕事に関する突っ込んだ会話(喧嘩?)もありません。
民間にいた頃は、意味の無い会議は早々に切り上げましょうと行った発言も出来ましたし、経費削減を意識すれば、不要な文書は、出した者が叱られもしました。仕事に対する考えの違いは、夜遅くまで議論し、帰りがけに一杯やりながら、延長戦もやりましたが、いざ、やるとなれば、お互いの考えが知れてますから、大した説明が無くとも、皆が協力して旨く運びました。
教員は、こうした議論がありませんから、何をするぬも担当者任せで、説明の為の事細かな文書が大量に必要です。
自分は民間での仕事のやり方が当たり前と思っていましたので(今も思っていますが)会議の発言も議論も一番多く、集団の中では、浮いた存在です。
これを打ち破るには、文部省が何を言っても、指導要領が変更になってもおいそれとは変わりません。
教員の価値観を根本から変えなければだめですね。
自分の思う対策は、教員は、民間企業経験を採用条件にするくらいでしょうか。
これからも「論長論短」楽しみにしています。
これってまさに日本のお役所そのものですね。
日本が沈み行くはずです。
日本の官僚組織の皆様方にぜひ読んでいただきたいものです。
余りに的を射たご指摘だったのでついコメントさせていただきました。
今回の「家は心にある」に、またまた感動してしまいました。
心に響くコラムを、多くの方に見て戴きたいと思い私のブログに
宋様の全文を掲載させて戴きました。
主婦のころ私は家が大好きでした。
お洒落な喫茶店で、本格的なコーヒーを味わうよりも、主人や子供達、両親と
楽しむコーヒー、友人を招いて談笑する午後の一時が何よりの喜びでした。
愛する家族がこの世を去り、長期入院した後、「家」は眠るだけの場所になりました。
社長になった今、心の「家」は会社にあります。
敬愛する祖父(創業者)の写真に見守られ、社員達がキビキビ働らき、
時にはトラブルに喜怒哀楽を表す、ここが私の最良の居場所です。
会社は、社員の集まりであり、社員には、それぞれの「家」があります。
小さな会社ゆえに、一人一人の家庭の状況もおおよそわかっています。
景気の激変を受け、経営者は雇用維持に苦しむ時代に突入しました。
祈る心で経営してきましたが、知らず知らず手を合わせる回数が増えました。
ピンチをチャンスと変え、会社を強くする機会にしなければなりません。
人間らしい心を失わず、『厳しく暖かい』社風を確立しなければなりません。
心の「家」を守るため、全身全霊で努力していこうと思います。
これは盲点でした。あやしげなコンサルタントとか、
広告業界の人が、よく横文字を使いますが、これは、
お客をケムにまく手法と解釈していました。
今後は、社内でも社外でも横文字を使う人がいたら
「それは日本語で言うとどういう意味?」と
注意したほうがいいですね。
私の家は、父と母が、懸命に働いて中古の家を買って私達を育ててくれました。今は両親も無くなり、家も壊して、今は何にも無くなりましたが、私の心の中に、両親の生き方として残っています。貧しい時代でしたが、とても素敵な私の子供時代でした。
私の小さな、会社を、後継者に譲って3年目に入ります。まさに、宗さんの言う駄目でない方の会社に、形が出来つつあります。社長は、社員を本気でおこりますが、次の日は誰も、持ち越しません。今は、会社のシステムがやっと出来つつあり、まだまだ未完成ですが、私の会社の人達が育つのが本当に楽しみです。会社は、経営者の物ではありません。働いている人が幸せになる為にある物です。仕事は自分を高め、家庭を幸せにする為に会社はあるべきです。いつも、宗さんに励まされて、仕事をしています。正しい判断力・意見を持った人が少ない日本で、宗さんに教えて頂きまして本当にありがたく思います。
文章には感動しました。
殺伐とした昨今、このような哲学を多くの老若男女が深く理解することが肝要でしょう。良くも悪くも時代は変わる。
世は多様性を飲み込む「真性のダイバシティ」を必要としているのでありヒトの原点
回帰を求めているのかも知れません。
PS
宋さんへ辛口コメント
もう、かれこれ10年近い一昔前の話です
ソフトブレーンがまだマザーズ上場した ばかりのころで赤字経営だったころ、投 資家説明会でS社への出資者として
家族思想的な日本的雇用では雇用調整が 難しく一旦雇えば大きな負担になるので 伸びる時期でも「雇用は増やさいことで す。」と助言しました。
宋さんはその当時率直に意見を聞き入
れ事業経営され収益も安定していました その後、経営が次世代に移り次第に従業
員の数も増え、現在の状況に至っていま
す。
「弱った会社の前兆・・」
云うは易く行うは難し・・・・
万事は計画どおりには行きませんが
「大切にするマインド」「哲学」は
不変としたいものです。
投資家から透視家へ
「真実」を見抜く目を養いたいものです。
今回の特集になぞらって我社を考えてみると、
ざっと以下のようでしょうか。
@会議は多いですね。
A新○○計画(たいていは10年くらいの長期計画)みたいなモノを
作るのに多大な労力を費やしています。
何の役に立つのか不明です。もちろん、
10年後に検証することはないでしょう。
同じやり方を10年以上続けているわけです。
B役所なので、セールスをするとなると、
何をセールスするかという難問にぶつかります。
外回りをしてはいます。住民の意見を聞く姿勢を示そうということです。
悪いことではないと思います。たぶん。
C試験で採用するので、美男美女は少ないかも。
D文書は多いですね。
ちなみに、一人一台PCとなり、ネット環境が整ったため、
掲示板の書き込んで説明責任は終了。読まない奴が悪いという状態です。
E当然、上司とは喧嘩しません。
Fさすがに職員は減っています。そのせいか、残業が増えて、
心の病で休む人間も増えています。
なお、残業代は半分も出ません。労働基準法違反です。
ただし、出るだけましかも。
G最近、横文字は姿を消しつつあります。これはいいことでしょう。
H何をしているのか、よくわからないセクションがあります。
担当者に聞くと、それなりに大変なようではありますが・・・。
普通、役所は倒産しないのですが、夕張市のような例もあり、
宋さんのメールをみて少々心配になってきました。
どんなに立派な家でも、思いやりのない言葉や罵詈雑言をあびせられる家には住みたくないです。
「家は心にある」家庭内は常に平穏であるとはいえません。
今日もいつものように普通の一日が始まります。
宋さんのエッセイを拝読し、
「いってらっしゃい。気をつけてね。」「お帰りなさい。寒かったでしょ。」改めて、普通の日々に感謝します。
心というキーワードを使っているが、だからといって、家は仮想空間でも良し(物理的に離れていても心が一つなら構わない、というような)との主旨ではない、物理的に一つ屋根の下で生活を共にすることこそ必要、と読み取った。なぜなら、【「家」を実感するのは妻の「お帰りなさい」であり、夫の「ただいま」であり、子供の「今日は・・・」の報告である。いつもの人と一緒に風呂に入る、いつ
もの料理を口にする、いつもの人とキスする】とあるのだから。
単身赴任は確実に家族の絆を蝕む。崩壊させるとは言わないが、家族間に微妙な隙間風の吹き抜ける余地を生む。これは私が子供として経験した実感だ。それを止むを得ないとする論理ばかりが罷り通り(特に現下のような未曾有の不況時には)、たとえばそれが家族関係に及ぼす弊害を扱った研究の皆無であることが不思議でならない。
はたして「ただいま」を言うのは夫に限るのでしょうか。「お帰り」を言うのは妻だけなのでしょうか。私はお粗末ながらも、そこに引っ掛かりを感じてしまいました。男女の役割がどうのや、ジェンダーうんぬんを語るつもりはありませんが、「お帰り」も「ただいま」も誰しもが言う言葉であり、誰しもが言わなくなった言葉であるように感じています。
私は現在子どもに接する職に就いており、子どもたちが帰宅した際「ただいま」を言い、「お帰り」を言われているのかが気になります。
「ただいま」「お帰り」こそ「家」の原点であり、「家」の暖かさと考えたため、夫が妻がというより家族の「ただいま」「お帰り」の方が良いのではと、コメントさせていただきました。
駄文お許しください。
もちろん宋さんがいう、「議事録、会議録、報告書、日報、メール・・・」が多いのは論外ですね。
Eは、「上下を超えて忌憚なき意見が言える、忌憚なき議論ができる」企業風土を作ることが経営者の大きな使命だということですね。組織にとって、一番むずかしい課題でしょう。日本では「質問ができない、質問しない」人が多いですね。恥ずかしいとか誤った謙虚さのためもありますが、アメリカではそういう黙っている人は不気味に思われます。「なにも考えていない」とみなされます。いい意味でケンカをすることです。ただしそれをプライベートに持ち込んではいけない。日本では公私混同が多すぎます。仕事の論理的議論(ディベート)から感情的衝突に逸脱することが多い。そういう企業風土(経営幹部)をもつ企業は生き残れませんね。
FGHはまったくそのとおりですね。
Fは社員をモノのように増やしたり減らしたりすることにつながりかねません。それより経営幹部が責任をもって社員の能力開発に力を注ぐべきでしょう。日本企業は人材開発に積極的だったのですが、いまや予算も割かない企業が多くなったようです。
G横文字、カタカナが日本に氾濫するようになったのは90年代初頭ですね。それ以前からかも知れませんが私はアメリカにいたので知りません。90年代初めに六本木とか新宿に行って、「ここはアメリカの都会じゃないか!」とびっくりしたことを思い出しました。21世紀に入って、横文字だけでなく、東京の建物も商店もみんなアメリカと同じになってしまった。自分たちの拠って立つところを失ったと2000年代初頭に日本を見て二回目の驚きを経験しました。ぶれない立ち位置を失った個人も企業も、そして国家も衰退する運命にあるのかもしれません。
Hは、余分な内部調整が増えるだけで、社員のやる気を失わせ、組織の力を弱めるだけですね。製造業では単能工より多能工というのは四半世紀まえから当たり前のはずですし、知的労働者は本来的に多能工、広くかつ深く考えるのが当たり前でしょう。そういう考え方や訓練を社員(そのまえに経営幹部)にしてこなかった企業は弱くなるでしょう。
意味不明な部署が増えることだけでなく、事業や経営のプロセス、そのプロセスのなかでの各人の役割があいまいである、組織の目標がはっきりしていないことが問題でしょうね。優良企業のやり方が、日本企業で誤って取り入れられた典型が「成果主義、目標管理」でしょう。そんなコトバの英訳はありません。
わが家の17歳は、家族の「行ってらっしゃい」が聞こえるまで、「行ってきます」を連呼します。あいさつでなんとかつながっていますね。