「昔は近所に怖いおじさんが居て悪いことをする子供達に注意したものだ」。このような昔を懐かしむ言葉はよく年配の方々から聞きますが、実は今も子供達に怒鳴るおじさんがいます。しかし、その中身はかなり違います。
無邪気な幼稚園児が商店会の自販機を小さな手でちょっとたたくと、園長を呼びつけて「教育はどうなっているか」とキレる商店主がいます。手を繋ぐ園児達がオフィス街を通るとき、ちょっと煩いことをするとすぐ怒鳴ってくるおじさんがいます。人がまばらの公園でちょっと犬の紐を緩めると「ルール違反だ!」と言ってくるおじさんがいます。
最近の日本は正義が多すぎます。最近、「官僚が悪い」という正義が流行っています。そのため数十年前に犬が処分されたことを思い出して元事務次官を殺してしまう「正義感の強い人」まで現れました。
彼のあの正気に溢れた堂々とした表情をみて、悲しいというよりも虚しい気持ちにならざるを得ません。この国は最近、全部他人のせいにすることが流行り、そのための言い訳も立派です。まさに「替天行道」、正義の代行です。
この国の官僚はつい最近まで世界で最も優秀だと言われました。戦後の高度成長は政治家ではなく、官僚達の功労という見解はごく一般的でした。いつの時点からか分かりませんが、まるで「官僚が即ち悪」のような世論が出来上がり、小泉容疑者に正義を代行させる捌け口を提供してしまいました。
官僚になれる人は日本の最も優秀な人達の一部です。官僚になる人は決してお金などの私利私欲ではなく、国家や社会への義務感を持つ人がほとんどです。その彼らを悪というならば、日本の誰が善でしょうか。まさに自分だけが善で自分以外の人が全員悪だと言わないでしょうね。
業績が悪くなると中間管理職が悪いという経営者がいます。私が知っている限り、そのような経営者にはすばらしい経営者がいません。たしかに中間管理職は保守的になるケースが多いのですが、そうさせたのも社長であり、変えられる立場にいながら変えないのも社長です。
日本の政治家は自分を売り込むために「官僚が悪い」と言いふらす人がいますが、私にしてみればそれは無能な経営者と何にも変わりません。官僚を使う立場の政治家が自分の失敗を認めず、部下のはずの官僚を批判し、世間の批判の的にするのはとても卑怯です。
皆が私利私欲のために正義を振りかざす世の中は悲しいものです。サブプライムローンや金融派生商品など、人間の私利私欲が暴走した結果、今の大不況が降りかかってきましたが、悪いことを全部他人のせいにすることもこれに勝ることがあっても劣ることがないほどの、私利私欲なのです。
一人ひとりが内側に潜むその私利私欲を認めてこそ、抑制が始まるのですが、皆が自分こそ正義を代表しているというから私利私欲が蔓延して収まりません。私も偉そうにいう資格はありませんが、せめて自分の私利私欲を認めて人のせいにしないように努力したいものです。
私にも強い正義感があります。しかし、それが怖いと思う時があります。なぜならば、正義は狭窄と紙一重だからです。
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同感です。
謙虚さと真摯な武士道は何処に言ったのでしょうか
正義を振りかざす人間が非常に多い事に全く同感です。
完全な人間などいません。ただ、官僚は政治家、先生と呼ばれる方々は、ほんの些細なミスや失言で、マスコミの餌食になり、そのあまりにも正義感の強いニュースキャスターの発言を見て、聞いた国民は、もう自分で何も考えられなくなるのだと思います。まさに思考停止の状態です。
皆が正義を振りかざす時、それは争いに発展し、戦争にもつながると思います。
この国の未来を憂います。
宋さんの言われるように、給料が高いとか都内のいい所に住みすぎとか言われることが多いですが、大学の同級生の中でも安い給料で重い責任を持つ仕事ですので、やっぱり正義感の強い人が多いのです。ちょっとした事件が起こると24時間拘束状態になるのに、あたかも「当り前だ!」と言われるのは、少し酷いなと感じることがあります。
ただ、ここでも狭窄があり、「自分が正義であるように」との判断基準が働いてしまうことが多いのです。それが非効率性を産み、官僚組織の肥大化や民間人の手続きの煩雑化に繋がってしまっているのです。私達が批判することが、しっかりと自分の元に戻って来てるということです。
不都合を他人の責任にしている場合では、お互いにそう言い合っているだけで進歩は産まれません。経営者が「中間管理職が悪い」という話なんて最たるもので、それをどう活用するかが経営者の仕事そのものではないかと思います。役員クラスの話なら分かるのですが、孫子でも如何に訓練するか、如何に奮起させるかであり、社員の質そのものは経営者が管理するものなのです。
現状の日本では、職業能力についてはほとんどが会社に入ってから養われます。終身雇用では会社の教育に依りますし、そうでなくても給与や魅力度によってそれなりの社員が入るのです。やっぱり経営者の責任なのです。
自分をしっかりと見つめなおすことで、進歩するのが人間なんだと思います。
今回も、私自身にいい教訓になりました。
いつもありがとうございます。
あの、数多いデータの削除や変更によって、浮かせたことによる、莫大な金額のメリットを受けた人は居なかったのだろうか?
その真実を知っていたのが、あの殺された元次官という可能性はないのだろうか?
私には何か、個人の犯行にしては、動機をはじめ、納得できない要素が余りにも多いのです。
本当に仮定の話ですが、もし、知られたくない人が、知っている人を消すために雇った殺し屋の犯行とすれば、「正義や狭窄」とは別の次元の話になってきます。
それと言うのも、通常のお役所仕事の中で起こった改ざんにしては、あまりにもずさんで、あまりにも多額であるためです。
或いは、そのずさんさに乗じて何かが起こっているのではないか?と疑いを持つのは、小生だけでしょうか?
宋様の記事とは、方向がずれている事を承知していますが、事件そのものへの警察やマスコミの取り組みに、漏れている視点のような気がして、日頃から気になっているため、コメントとさせていただきました。
読ませてもらっています。
今回のご意見にも、全くその通りだと思います。 山本夏彦氏も書いていますが、正義ほど
厄介なものは無いと。
人生や経済に絶対正義はないため、どこか自分の考えとは違うなと思っても、それを過ちと
論破する根拠も知らず、能力もありません。
自己利益のためだけでなく、全く無関係にも関わらず、批判の声を上げて自己満足する人も多いように思えます。 マスコミの偏向報道が影響しているとしか思えません。
戦後派の私ですが、戦時中の世論形成と今の
世論誘導は同じものと思えます。
最近の総理の言動は、総理としては軽率であろうと思いますが、内容には賛同できることも含まれています。 立場としてや表現力に問題があるとの批判は良いとしても、内容の是非に触れようともしないことに、怒りを覚えるほどです。 全ての人の賛同を得る意見など、世の中には有りはしないのに、一方的すぎ、また迎合する人が多い。
宋さんの言葉は、本当に清涼感があります。
いつも楽しみにして読んでいます。
狭窄とは、宋さんがいう狭窄って何と
思い質問したくなりましたので、グーグルで狭窄とはと引いてみました。
次号も楽しみにしています。
いつもメルマガ楽しみに拝読させていただいております。
今回の記事も、いつものように頷いて読ませていただきましたがただ一点、私に理解出来なかったことがあります。
“正義”の反意語として宋さんは“狭窄”を引用されておりますが、この意図が分からないのです。
正義の反意であれば、単純に“悪”となるか、今回の記事の趣旨であれば“偽善”のように理解しておるのですが・・・。
自己の偏った正義感に溺れた「視野狭窄」という意味での狭窄と理解するのが自然でしょうか?
私の理解力の無さはともかく、この国の偽善には辟易しております。正義を振りかざして人が他の人を裁く、特に多数意見が少数意見を“悪”として裁くような行為は、いかなる時も私は偽善だと思うのです。
とありましたが、ロジック的に理解できません。説明していただけませんか?
インドのテロでも自らを聖戦士と言いながら何の罪もない人たちを殺しました。
スタジオジブリの宮崎駿監督は、「悪を倒して平和が訪れるというような作品は作りたくない」とおっしゃっていました。
先日、筑紫哲也さんが亡くなりましたが、「多事争論」とおっしゃっていました。
多くの人たちが違う価値観を持ってひとつの世界を共有してゆくのは大変なことですね。
今回のお話を読んで自分もそうなっていないだろうか心配になりました。
テレビなどを見ているとき、ついつい人をあまり深く考えることなく批判していることがあります。
後でよくよく考えてみると自分も遠まわしに加担しているのではと思えることもしばしばあります。
怖い世の中になったではなく、それに自分も加担しているのではということを考えることも必要だと思います。
環境だけでなく人にも優しい(自分にではなく他人にやさしい)世の中にできないものかと思います。
世の中そんな甘いものではないと批判を受けそうですが、自分が周囲の人にひとりずつやっていければと思
っています。 やっぱり私は考えが甘いでしょうか?
>私にも強い正義感があります。しかし、それが怖いと思う時があります。
私も齢を重ねるごとに、ご指摘とおりになってきています。本当に恐ろしいです。
コンビニのレジの店員が客商売の基礎がゼロな対応をしたり、電車の中でヘッドフォンの尋常ならぬ音漏れや大声で自ら発信しての通話する者などへ正義の名を借りた制裁。(もちろん手は加えません)アルコールが入ると拍車がかかります。
今回の容疑者を見ていると、正義というよりも、自分の”信義”と、世間の一般常識が乖離しているよう感じます。
いずれにしても年齢を重ねる事に自ら相当の注意を払う義務があると思います。単なる、そこらじゅうにいる”説教オヤジ”なら人畜無害ですが(それでも職場で相当嫌悪されているでしょうが)、実害が発生してからでは遅いです。
この傾向は女性にも多少見受けられますが、”更年期”という名目で別の見方をされるケースが大半のようです。男性にも更年期があるのでしょうが、”ワケも無くキレるおやじ”が大変増えています。
自分自身も他人事ではありません。
他人の子供を注意するオヤジが多かった時代というのは、世間がそれを容認していた時代だったのかもしれません。
たかだか数十年長く生きていたからといって、全てにおいて文字通り”先生”であるというのは、偉大なる勘違い、悲劇の始まりなのです。
会社の経営者が、中間管理職を無能呼ばわりしても、倒産すれば、責任の所在は経営者である事は明らかです。しかし国家の破綻の場合は、被害や影響は甚大です。しかし、官僚は無傷です。旧共産圏で、最後に殺された独裁者はいましたが、官僚はいなかったと思います。
旧共産圏の国と似たように、強大な実権を握っている官僚と、民主主義国でありながらこれを制御出来ない政治家に、不安と不満を感じているのが私達一般庶民です。今の日本にとって、正義とは何でしょう?つい最近の歴史が私達に教えてくれていると思うのですが。
それがつながっていると感じると人々は心安らかにしていられるのです。
というわけで、会社の経営者と中間層の話ですが、これがつながっていないケースが宋さんのおっしゃる一部の経営者の問題なのでしょうね。
そうするとあの不愉快な事件も理解しちゃったのです。身の回りの正義とか人と人の間の正義をすっ飛ばして正義をやっちゃうのですよ。
メディアが官僚批判をすると、全部そのまま人のレベルまで落としこんでしまった人がいたということではないですか。間が抜けている。これを間抜けというのでしょうかね。
宋さんがまだこれほど有名ではないころに宋さんの話を聞きに行ったことを思い出します。
牛に馬になれといっても無駄なんですよ、牛は牛の使い方があるとか、私は現在、家族と過ごす時間がちゃんと確保できているといった内容の話が今でも心に残っています。そして、製品内容に関して質問した方にはサイン入りの本がもらえるということで思わず勢いで質問したことを覚えています。その本は今でも大切な宝物として持っています。
さて、今回も拝見させていただきましたが、私は毎回異論がなく、コメントしたくても出来なかったのですが、今回、初めて少し違うなと思いました。
書かれている内容にはまったく反論の余地がないわけですが、ただ、だからこそ官僚の方々にも政治家に立ち向かう勇気を持ってほしいと願うのです。
なぜならば、結局はこういった結果が待っているからです。誰かが年金問題等に勇気を持って苦言を呈していれば、今回のような事件は起こらなかったのではないかと思っています。そして、それは一事が万事です。
政治家は会社で例えるならばまさしく社長です。そして、そうさせたのも変えることが出来るのに変えないのもまさしく社長であり、政治家です。しかし、だからといって、逆らえないからといって結果が見えているのに従う姿はいかがなものでしょう。
そしてそれは行き着くところは我々個人の姿です。我々個人が常日頃からそういった勇気を持つことが大切であると思います。そしてそれは正義の代行でありません。それは思いやりの心です。私は勇気とは思いやりであると確信しています。
宋さんのおっしゃるように、そもそも正義とは何ですか、悪とは何ですかということです。
あえて言うのであれば、相手の気持ちを思いやり、自分の気持ちを思いやり、出来る限りの思いを背負い起こす行動こそが正義であると私は思うのです。
勇気を持って、思いやりを持って我々一人一人が行動できるようになることを願ってやみません。
長々と失礼しました。
納得させられることが多く、たいへん勉強になります。無償で読ませていただいていることに恐縮してしまいます。
さて、今回も政治家のことに触れられていましたが、この政治家の選出について以前からお聞きしたいと思っていたことがあります。
わたしたち有権者は、村会・町会議員は村や町の発展の為に、市会議員は市の発展の為に、県会議員は県の発展の為に努力してくれる適任者が誰かと検討して投票します。さて、それでは「国会議員は?」となると、ちょっと訳が分からなくなります。
日本国の発展のために尽力すべき人たちのはずが、選挙期間中に「立候補した都道府県の発展の為に‥‥」とか「○○業の振興をを図る為に‥‥」等と堂々と支援者に訴えています。典型的なのは「族議員」と呼ばれる人たちですが、このような特定の基盤に支えられて当選した議員は、その時点からしがらみを持って政治活動を行わなければなりません。そういった背景を持ちながら、『日本国全体にとって何が必要で、その為に何を犠牲にしなければならないか?』ということを適切に思考し、判断することは不可能だと思われます。自分の支援組織の利益を優先に考える『部分最適議員』ばかりになったら、この日本はどうなってしまうでしょうか?
「郵政民営化」など、当時散々議論され、我々国民がその内容を新聞・テレビで少なからず伺い知って、その意志を投票に繁栄させたにも関わらず、今頃になって総理に始まって、自民党の郵政族や民主党等が撤回の動きを始めていますよね。
いっそのこと、例えば「国会議員に対する団体支援禁止法」(団体をどう定義するか等、全く具体性はありませんが‥‥)とか、「国会議員の特定支援団体保有禁止法」の様な法律をつくるとか出来ないものでしょうか?「『私利私欲』を国民が優先すれば、結局は国民にとって不幸な結果として返ってくる」ことをしっかり認識するしかないのかもしれませんが、「政治家の適切な選出方法」について過去の歴史や諸外国から学ぶことは出来ないものでしょうか?
私利私欲に走る人が多いようです。そのせいか、権利ばかりを主張する人も沢山います。(権利でもないことを権利と主張する人もいます)
権利より先に、義務を実行することを心がけたいものです。
最近マスコミが騒ぎたてた首相の高級ホテルのバー通い批判などは、半分以上妬み、嫉みを庶民感情に訴えるくだらない正義だと思います。
日本には人の振り見てわが振り直せと言うことわざがあります。世間には不条理なことがありますが、それを非難する前に自戒したいと考えさせられる内容でした。
いつも論評を楽しみにしております。
先般宋さんがTV番組でコメンテーターとしている番組を見た時に、問題意識を相手に一生懸命ぶつけていた状況を拝見しました。
でも、私だけかもしれませんが、その状況からは「宋さんが噛み付いている」と映りました。私は宋さんのお考えは、いつもの論評の中で理解し賛同している者ですが、なぜか「噛み付いている」と感じてしまいます。
大きなことは言えませんが、是非宋さんの明晰な心で多くの人を「導く」よう希望します。それが宋さんのプラスワンとなるでしょう。ご活躍を期待いたします。
多くの事が未だ不明であるからです。
それと官僚批判をからめて論評されることに非常に不安を感じます。
律令制度が制定されて以来、官僚は常に国家運営の中枢にいますが、国民の生命と財産を守るために日夜努力して来たとは限りません。
時には主権者の意思を無視して自組織や自分のために奔走した人物や組織があった事は事実です。
大東亜戦争はその結果として300万人にも及ぶ戦没者を出しましたが、誰もこの戦争を始めた責任を取った人はいません。
当時の兵士は兵站も無く、食料は現地調達しながら、中国の荒野を進軍させられました。戦争の責任は1億総懺悔と言われ、全ての国民の責任であるとされました。
この無謀な戦争を企画、計画、実行したのも時の官僚です。戦後、天皇や個々の政治家、官僚の責任が明確にはされませんでした。
お互いに傷を舐めあい、痛みを分散して結果として責任を取らない状態です。
今回の事件で官僚は悪くない、国民のために汗水流しているのだから批判はするなと言う雰囲気が醸成される事を大変恐れます。
官僚が国民の為に働くように正すのは私たちの代弁者である政治家であると思います。その政治家を選ぶのは私たち国民ですからしっかりと監視していきたいです。
なぜこのようになったのでしょう
思うにテレビ等のマスコミの情報に流されることと自動車の普及があると思いますが如何ですか
自分さえよければそれで良いという風潮と人より少しで前に出よう競争譲り合いとか譲って貰ったことへ会釈お礼の心がなくりましたね
替天行道とおっしゃったが、元次官の殺傷事件にしても、近所のクソガキへの脅迫事件(愛知県半田市)にしても、その行動は単に『自分が気にくわないものを攻撃する』としか言いようのないもの。
盗人にも3分の理といいますが、これら行動には、もちろん1分の理もない。個別の行動内容に賛否があるとしても、この理なしという事実は、誤魔化しようがありません。
理があると、ないと、紙一重とは、これいかに。
殺傷事件や脅迫事件が示す世相は、日本社会…および社会を運営している集団に籠っている深刻な閉塞感のあらわれだと考えています。
過去数十年に積上がった既得権益をうまく処理できず、新しい時代に適応できていない…どころか、どう適応すればよいのか筋道さえ見当もつかない、こういった閉塞感。
しかも、その閉塞感、行詰まりという事実を、ひた隠しにせねばならない「優秀な」官僚たち。
気の毒ですね。1人1人は相当に優秀な個人なんですが、組織がボロボロで能力を発揮できない。骨身を削るような厳しい仕事をしても、将来の見通しが立たない。私なら、とっとと辞職します。
たとえ今は苦しくても、将来に続く道が見えれば(そして優秀な彼等には容易に見える筈)がんばれるのですが…。
つくづく、今は「幕末」と思います。
狭窄の使い方ですが、中国語と日本語の違いかも知れませんが、狭隘の方がしっくりいくのかなと思います。
ただ、
この国の生い立ちからして公務員様ですから国家の下僕ではあっても国民の下僕にはなりえないのかもしれません。それでも国益より私益を優先する輩は公職から追放するだけでは不十分に思えます。三代に渡って懲罰を課すとか(時代逆行かな)
三権分立も機能不全のようですし法自体が世の流れに沿わずネジれていたり骨抜きだったりします。日銀総裁もかつての雄姿は影も無く、政治家や官僚も御用聞きやプロパガンダ、内輪の小競り合いなら他でやってくださいと言いたくなります。
親分である米国が傾いている今、子分が傘の下で安穏とできる状況ではないと万民が意識すべきだと思います。日本は中国ほど打たれ強くないですから先行き不安…正に状況は清の下の李朝ですね。世界に冠たる平和国家も歴史の一ページになるのかもしれません。
NEET(Not in Education, Employment or Training)な方々が思う正義とは何だろうとふと考えたりします。
とはいえ、罪を憎んで人を憎まず、という境地にも届かないのですが。
悪徳官僚も無責任政治かも皆私達が住む社会から出てきたのですよ。
突然天から降ってきたのではありません。批判ばかりしてどうするのですか?
「天に向かってツバを吐く」ですよ。
マスコミも国民も政治が不満なら代案を出せば?また自分が立候補したらいかがすか?それはできない?情けないですね。
出来ない、やる気もないなら批判などせず
黙っていなさい。
少なくとも「自分のことを棚に上げての他人批判」よりも精神の堕落が少ない筈です。
でも、政治家(経営者)が官僚(社員)の悪口を、第三者に公言するのは、全く解せません。
巷で見る政治家のポスターに、官僚制度をつぶす と書いているのも、
自らの社会年金の手続ミスが問題になった時、旧厚生省の役人が悪いと叫んだ、元厚生大臣(まさに元社長そのもの)も。
宋さんのおっしゃるとおりだと思います。
官僚内閣制と揶揄する議員達と、同じ思想ではないか。この部分は宋さんの皮肉かどうか、理解しかねる。
かつての官僚たちはまさしく日本のエリートと呼ばれていた。
それは私利私欲に走らず、公僕としての職務を全うしていたからに他ならない。
真のエリートたる官僚は、その優れた能力を出し惜しみすることなく、国民の福祉や国の発展につながることのみ注力し能力を発揮してきたのだ。
しかしながらいまの一部分の官僚は、先人たちが築いてきた信頼・機構を後ろ盾にし、保身や経済的な豊かさの追求のみ自らの能力を浪費しているのだ。
これが宋さんの序文になるはず。
官僚の全体が悪いと言うのは、確かに舌禍の状態ににあると言わざるを得ないが、
前置き無しの状態で、官僚の全体を肯定されても納得がいかない。
官僚の一部分を含め、公務員の側のある一部分に巨悪が存在することは紛れもない事実であり、その事実を管理者(大臣、政治家)の無能さゆえと許容することも国家公務員法に馴染まない。
但し、それら一部分の「官僚の独走」を許してきたのは、ほぼ一党独裁の政権与党に官僚機構と国家運営の保全を容認してきた「国民」だと言うこと。
かつての官僚=エリート像に安心しきって、封建国家時代の名残をそのままに「お上意識」に依存してきたことが問題なのである。
さらに言えば、宋さんの記事を読んでもそれを妄信せず、一人一人がいまある国の問題点を考えていくことが重要である。
そうやって導き出されたものが、その人の「正義」なのだと考える。
現世にある正義は普遍的でなく、多様だ。
数で凌駕されると言うことがある。
前段にある「おじさん」の話は比喩なのだろうが、誰も何も言わないところで一石を投じるのはとても勇気が必要なこと。
個人的に思うことは、日本は長いこと阿吽の呼吸でやってきた閉鎖的な民族。ここへ来て文化や価値観の多様化が加速度的に変化しているから、あちこちで摩擦が起きることは当たり前の話だ。
違法行為や脱法を容認するものではないが、ただ虫の居所が悪い「おじさん」や犯罪者を日本人の代表格にして、「戦争勃発」に結びつけるのはどんなんよ?と感じる。
宋さんの言説では、一石を投じる人の勇気をも剥ぎ取るように誤解を与えてしまう。
標的にされた厚生労働省関係者は、一国民の目から見たら気の毒にと思う。
しかし彼らは恥じるべきだ。
自らを、真のエリートと考えるならば。
そうです、アメリカは正義です。アメリカだから正義なのです。
>つくづく、今は「幕末」と思います。
そうですね、それなのに「天誅」という言葉はマスコミ一律に使用禁止になったのでしょか。
//
尾籠な話で申し訳ありませんが、ちょっと書かせてください。(肩の力をがくっと抜いてから読んでいただきたいのですが)
私はマラソンをします。長い距離になると、ランナーは尿意に襲われることがあります。そうなると・・・・・・。トイレがすぐそばにあるとも限りません。東京マラソンのようなマンモス大会ではどこのトイレも行列になります。すると、立小便という『軽犯罪』を犯す人が出てしまいます。
人間の体は時に奇跡的な働きを見せますが、全てを意思の力でコントロールできるわけでもありません。尿意もそうでしょう。ある程度のペースで快調に走れば体内の水分は汗としてどんどん出ていきますから、トイレの心配は余りありません。しかしコンディショニングに失敗してペースが上がらなかったり、スタート前の待ち時間で体が冷えたりすると、取った水分が汗でなく尿に流れます。初心者の場合、スタート前に緊張して口が渇き、それを癒すために水分を取りすぎて、あとでトイレに困ったりもします。
では、『軽犯罪』を犯した彼ら(女性はそんなことしませんから、『彼ら』です)をどうするか。トイレが近くになくて「進退窮まる」(?)苦しい思いをしたことは誰でもありますから、片っ端から軽犯罪法違反でひっくくれ、とは言いたくありません。立小便を責めるのは『正義』ですが、どうしようもない生理現象に起因すると考えれば、『狭窄』にもなりえます。
でも、立小便ランナーが大手を振って走る、というのも見苦しい。最近は大きな大会になると、男性ランナーが連れ立って立小便、という姿も見られて問題になっています。『正義』をきちんと通さないと、非常識が許容されてしまう、というわけです。立小便する姿を見せられる女性ランナーだってたまらない。『立小便』されて嬉しい住人もいないでしょう。街の人に交通規制を我慢してもらって、応援もしてもらって、挙句に『立小便』ではいけません。
立小便しなくていいようにトイレを増やせ、という解決策もありますが、仮設トイレのレンタル代もタダではありません。参加料を上げるか、それでなければ主催自治体の補助を増やすか。後者の場合は、地元の方の税金を食いつぶすことを意味します。
つらつら書きましたが、解決策はよく分かりません。ただ、この件に関していうならば、「恥」とか「大人気」がキーワードのような気がします。きちんとコンディショニングして、出発前にトイレも済ませて、いいペースで走れれば、トイレに行く必要などない、だからトイレに駆け込むのは恥ずべき失敗。そう思うランナーが増えれば、立小便は減るのでしょう。もちろん皆無にはならないでしょうが、ごく少数になれば目くじら立てるのも「大人気ない」ということになるかもしれません。
はじめまして。
初めてメール差し上げますこと、はなはだ失礼とは存じますが、
今回のメルマガで思うところありましたので、
コメントをさせていただきます。
今回のメルマガも人生の参考に読ませていただいております。
自分を見つめ直すきっかけにもなっており、大変感謝しております。
私利私欲や自己中心が進むと、本人の言っている正義はピントがずれてきます。
それは正義とは言いがたいでしょう。
とはいえ、私はそういう人を正義か悪かとは判断できません。
どこか優柔不断なのかもしれません。
かつて努めた大手ITの系列会社では、正義や大義を掲げて、
社員をパワハラまがいの方法で退職させ、
崩壊まで突っ走った社長および一部経営陣(サービス部門除く)がいました。
その前の代の社長までは、順調に業績を伸ばし、古参は優良な人材に育っていました。
新社長および経営陣、
強権的に会社を運営し始めて半年ほど経過し、業績が悪くなると、
経営陣は従業員が悪いと言い始めました。
人材が流出して、会社に不穏な空気が蔓延していたのに、
業績が悪くならないほうがおかしいです。
私の担当事業部は、常に右肩上がりでしたが、サービス部門の各管理職からは
「現場いびり」と呼ばれていた月次ミーティングで、
私も例に漏れず毎月必ず重箱の隅を突かれていました。
さらに業績が悪化し、経営陣は特にサービス部門の各中間管理職が悪いと言い、
会社から追い出すように強烈なパワハラに出てきました。
サービス部門の中間管理職が順々に転職して行き(私もその一人)、
営業部の人間がサービス部門長を兼任するようになりました。
会社としては、コスト削減になったのでしょうが・・・。
私にとっては、その社長や経営陣が皆“悪”そのものに思えていました。
後で判ったことですが、彼らは自分たちがやってきたことが
本当に正義だと思っていたようです。
それを知ると複雑な気分でした。
善悪で判断できていた時のほうが、ずっと気持ちが楽でした。
完全に営業部支配の会社になって、そこで言われている正義が
本当に正義であるはずはないと思います。
私利私欲のために正義を掲げただけにしか見えません。
そんな会社のサービスを受け入れる会社などありません。
その後、会社は無くなりました。
同様の会社はそういう末路なのでしょうか。
あるIT会社の知人 Aさんの話です。
そこの社長が押し切って決断し失敗したことであっても、
(本人としてはそういう認識は全く?無いのですが)
Aさんが悪いというような指摘を受けることはしばしばあります。
社長の机上の理論を論破できないAさん自身にも問題があるなど、
Aさんなりに反省をしています。
Aさんは総合的かつ最終的には必ず良い実績を出しているので、
降格やクビもなく、社長としては他に人材がいないから
Aさんに中間管理職を任しているのでしょうか。
他部署でも同様のことがあるようです。
既に古参の方々は、保守的になっていて発言も控え気味です。
毎回、社長が机上の理論などを頑固に正論として強烈に熱く語ると、
雇われる側としては、引いてしまうか、退職という選択肢になります。
そのことから、現在は保守的な方々が多く残っていると判断できます。
ですが、社長は、「古参なのにBさんもCさんも自発的ではない。
ネガティブだ」とか「話しているポイントがいずもずれている」
「意見を全然言わない」などと愚痴を言うことがしばしばあります。
社長は、自分で自分を孤独に追い込んでいることに気付いていません。
本当はとても良い人であるだけに、Aさんは同情しています。
10年20年・・・と従業員の頭を叩いてきたら、さすがに人材として成長せず、
悪い形でまとまってしまっている筈です。
業務経験やスキルといったところでは大変優秀な人材を抱えている
会社であるのに、自分が何をどうしたいのか語れない人ばかりなのは、
とても勿体無く、また寂しい限りですね。
こんなことを言っては失礼ですが、社長は私利私欲のために(?)
正義/正論を振りかざしてきた結果が、今の状況なのだと思います。
自分の私利私欲を認めること、人のせいにしないこと、
私は心がけているつもりでも、まだまだ至らないところがあります。
強い信念や正義感も、時々冷静に見つめる必要があると感じています。
上記社長は、他山の石です。
正直なところ、何が正義なのか悪なのか、よく判らない今日この頃です。
今回の 宋 文洲 様のメルマガは、私に現実問題に改めて気付かせ、
多少なりとも立ち向かう勇気を与えてくれたと感じています。
「正義のヒーロー」も死語になりつつありますし。
現在のヒーローは身近な人々を守るためということはあっても、正義のために戦うなんてことはしなくなってきました。
それどころか特別な能力を得たことを悔やんだり、どう使うかに悩んだりするのが関の山です。
「正義」という言葉のあやふやさや胡散臭さに、人々が気づき始めたのでしょう。
「正義」とは今や自己正当化のために振りかざす迷惑でやっかいな武器でしかなくなったのかもしれません。
人々の考え方があるていど同じだった時代ならばともかく、「正義」を定義するのはもはや難しいでしょう。
「正義」だの「信念」だのという輩には近づかないに越したことはないですね。
狭窄や偽善行為は一時的には誤魔化せても、何かおかしいと感じる人が必ず出てきます。
自分で勝手に正義だと思っていても、誰からも支持されない正義は、正義じゃありません。それがわからない独りよがりな連中がいるのも困りものですが、彼らも周囲の状況を見て本当は気がつく筈です。
勿論、正しい事が必ずしも大勢に支持されない場合もあります。でも、時間をかければ、やがて正義は見えて来ます。1年かかるか、10年かかるか、大袈裟に言えば100年かかるものもあるでしょう。
だから、自分が正義だと思った事は、率直に感じるべきだし、周囲の支持や賛同をある程度得れば、躊躇なく行動を起こすべきです。誰かがそれをしなければ、正義は見えてきません。昨今の殺人事件等の例は論外であり、こんな行為は未来永劫、支持される筈がないのはわかりきっています。そんな非常識な例を組み込んで考えても始まらないと思います。
今の時代、正義は直球勝負では、ままならず、回り道が必要ですが、最後はキング牧師のwe shall overcomeになるに間違いありません。
自分は間違ってないという正義を持っている人は、これ又、被害者意識が相当に強く、あいつがいるから、あの会社があるから、官僚が悪いから、政治家が悪いから・・・で自分は不幸なんだと・・・・・
自分で解決しようとしないで愚痴ばっかり言ってる人がいます。愚痴を言っているあいだはシアワセにはなれません。
あとは、神経過敏というか。
嫌煙権には賛成ですが、それを悪だ!と根絶にまで持っていこうとする考えが過敏すぎ、精神的ゆとりのなさとなっている気がします。
「キレる」人が傲慢だと思うのは、「自分の好ましいように世の中ができているという前提で」生きている点です。
Pay something good forward.
Don't pay anything bad forward.
と思います。
地獄への道は正義によって舗装されている。
または、
地獄は正義によって舗装されている(こっちの方が古いらしいですが)
という言葉です。自分の正義こそが真実と思うのはこわいですね。
その原因に当たるのかどうか自信が持てませんが、利益効率だけを重視しすぎた結果、「他人に迷惑をかけても勝てば正義」と考える人が増えているのも事実でしょう。
昔は、金持ちなのに給食費を払わない親などは存在しませんでした。マネーゲームをする人たちの中には、自分が儲けるためには他人に損をさせることが当然だと考える人も多くなりました。
これら噴出する私利私欲の問題を解決する手段として訴訟社会を想定する向きもあるようですが、これはアメリカの先例を見れば、「ごめんなさいと言ったら負け」の世界になり、結果的に傲慢な人を増やすことになると思います。
これから高齢化社会が到来するので、助け合い精神を無くして個人主義を助長するのは、とても危険な選択なのでは。と、日本の将来を憂いています。
さて、伊達政宗が言っています。
仁に過ぐれば弱くなる。
義に過ぐれば固くなる。
礼に過ぐれば諂(へつらい)となる。
智に過ぐれば嘘を吐く。
信に過ぐれば損をする。
正義を言い募り過ぎれば「固く」、狭窄になってくるということでしょう。
人にはひとりひとり別々の「正義」があるわけですし、私も“固く”ならぬようこの言葉を戒めにしています。
食品に対しても正義がまかり通っています。正義の名の下に不条理に叩きます。
あのインゲンはどこへ行ったのでしょうか。たった一袋の冷凍インゲンに農薬ジクロルボスが発見された件です。正義と言う名の下に産地まで巻き込んで大騒ぎをしました。大山鳴動ねずみ一匹。その他の袋からはいまだに農薬も殺虫剤も何も発見されませんでした。
食品の安全を守るということは大事なことだと思います。が、そのことと、暴走することは別のことです。
正義がいつの間にか強いものに変わる。そ
叱る事と、怒りつける事、両方とも似た使われ方をしがちですが、全く本質は異なります。ネットで一方通行的な意見が一人歩き出来る時代です。個人がモラルを確りと身に付けていないと、暴走に歯止めが利かなくなってしまうんだと思います。
嘗て言論を戦わすと言う風潮がありました。
自分の意見を相手に聞いてもらって、相手の意見も真摯に聞き入ると言うものだったと思います。
言論の達人には聴衆を納得させ、共感を呼ぶ力が備わっていたようにも思います。
正義は大まかな括りで、個々に違った捉えられ方をする時があるようです。
「俺が思うんだから〜」的な利己的解釈が周りの人達に迷惑を掛けてしまうのでしょうか。
それだけ隔絶され、自分の殻に閉じこもってしまう、これも風潮であるならば悲しい事ですが。
話す人や場所がある事だけでもあれば。
歪んだ考え方は淘汰されて行くのでしょうが、、、。
瞬間的に・本能的に「嫌な感じ」、これが良い事であった験しはありませんね。
英国ではケンブリッジとかオックスフォード大学の卒業生のTop 10は労働党と保守党が採用して年数をかけて政治教育をし、優秀内政治家を育成すると言われています。しかしながら、残念なことに日本ではTop 10は高級官僚になります。従って、政治家が使われることになってしまいます。日本の政治家の無知には驚かされます。 勉強してない政治家が多すぎますし、そのような政治家を当選させる選挙民のレベルの問題になりますが。
自分たちの生活を左右する政治家を選ぶのに、投票率の低さには驚いています。 世界で一番低いようです。
中国の人と話をしていて以前にも同じように感じたことがあります。
猟奇事件や性犯罪、小児犯罪などの加害者は、いわゆる病的な資質をもつ場合が多いといわれます。もちろん判断力は正常範囲と考えられるので司法の場では一般人と同じように処遇されますが、人口の一定の割合でどこの国でもそのような病的な精神資質を持つ人がいるものです。
病的な資質を持っていても、その資質を早期に理解して環境を整えることで反社会的行動をとらないように教育的な対応ができるとされています。
しかるに、私が知る中国の人は、そのような猟奇事件や少年犯罪を見たときに、それを社会の影響のように捕らえることが多いようです。
社会としての経験も必要だと思います。社会がどう変わっても、結局そういう人が減らないという経験を積むことで、病的な資質について知ることになるのでしょう。おそらく中国ではそのような病的資質を社会体制のせいにしてきた歴史があるのだろうと感じます。
ちなみに今回の犯人が病的資質を持つと断定しているわけではありません。
冗談はともかく、時に「正義」は厄介なものだということに異論はありません。目新しい考えでもありません。戦争というのは異なった「正義」の対立で起こります。
最近、「官僚が悪い」という正義が流行っている?役人の不正や、それを民衆が非難することは世界中で大昔から日常茶飯事、今に始まったことではありません。
しかし今回私が宋さんに問い質したいのは以下のことです。
「官僚になる人は決してお金などの私利私欲ではなく、国家や社会への義務感を持つ人がほとんどです。その彼らを悪というならば、日本の誰が善でしょうか。まさに自分だけが善で自分以外の人が全員悪だと言わないでしょうね。」
これは本気でおっしゃっているのでしょうか?
日本で官僚になるような人間は優秀(優秀の定義も「正義」同様、色々あると思いますが)であり、彼らが日本の成長を支えてきたこと、殆どの官僚が私利私欲でなく高尚な義務感をもって働いているが事実だとしても、一部の官僚が、私利私欲が動機としか思えない悪事を働いているのも事実です。それにもかかわらず官僚の「善人度」が一般人より絶対に高いという根拠は何でしょうか?
また官僚の悪を指摘することがどうして自分以外は全員悪と言っていることになるのでしょう?宋さん程の知性をお持ちの方のおっしゃることとは思えません。
年金の問題は、それが故意であれ事故であれ、誰かが責任をとらなければならない「間違ったこと」であることは明白です。「正義」などという観念的で曖昧な言葉を持ち出す必要はありません。
私も全ての非が官僚にあるとは思いませんし、政治家には官僚を律する責任があると思いますが、悲しいことに日本の場合政治家が官僚にコントロールされているのが現実です。しかしそうでなかったとしても政治家が官僚の行動の全てを把握することなど現実的に不可能です。もし省庁で起こっている不祥事の全ての責任が官僚にではなく政治家にあるというなら、それは官僚側に都合の良い正義であり、それこそ「自分以外が悪」とする利己的正義に過ぎません。
ちょっとのことで小さな子に対してキレる親父や小泉某を「正義感の強い人」の好例のようにあげられていますが、極普通の良識を持った人なら、彼らはまともではないと思うだけで、正義感の強い人などとは思いません。
宋さんのコラムはNBOに連載されていた頃からいつも楽しみに拝読し、その通り!と膝を叩くことも少なくないのですが、ときに「優秀な人性善説」のようなものを感じます。
以前宋さんはここで「弱小の魂が綺麗か」というコラムで「魂の綺麗さは、人の強弱や富の有無とは関係ありません」と書かれました。その通りだと思いますが、同じ人が「彼ら(官僚)を悪というならば、日本の誰が善でしょうか」と書かれるのには大変な違和感を覚えます。
宋さんが村上ファンド問題で非難されていた福井元日銀総裁を擁護したときも私は書きましたが、人間の優秀さやそれまでの業績と、やって良いこと悪いことは関係ありません。
「官僚は日本でも最も優秀な人たちなのだから、彼らを非難するのは『正義』の間違った使い方だ。人のせいにするな」とおっしゃるのなら(そもそも何故そんなに優秀な人たちがああいうお粗末な問題を起こすのかが問題ですが)それこそ宋さんの、私利私欲ではないにしても狭隘な価値観による正義の振りかざしではないでしょうか?
なんでも人のせいにすることは勿論戒めなければなりません。しかし自己の損得にかかわらず悪を悪と言うのは当たり前のことで、それを「私利私欲による正義感」と決めつける必要はないと思います。
第2次大戦中に、駐日フランス大使を務めた詩人のポール・クローデルが「日本人は貧しい。しかし高貴だ」と言ったのは、日本人が貧富や階級にかかわらず絶対的な善悪の規範を等しく持ち、それが私利私欲に根ざしたものではなかったからではないでしょうか。
むしろその高貴さを今の日本人は失っているというご指摘であれば、それは謙虚に受け止めるべきかもしれません。
犬という動物は、狩猟の本能と人を見極める賢さを併せ持っています。そのせいか、犬を怖がる人間、例えば小生の長女に対しては遠慮なく吠え掛かり、追いかけようとします。ここで紐から放たれた犬に背中を見せればどうなるか。その時本能が目覚めていたなら、結果は明らかです。因みに、同じわが子でも長女以外は全く平気です。犬の紐を緩めるのが宋文洲さんと分かっておれば、仮に長女がそばにいても、小生は安心しておれます。しっかりとしつけ、また狂犬病の予防接種など飼い主の義務をきちんと果たしておられると期待できるからです。しかし、世の中宋さんのような方ばかりではありません。ルーズな人ほど、自分(の飼い犬)は大丈夫と根拠のない自信をお持ちのケースが多いというのが小生の見立てです。人がまばらであっても、チワワ等のごく小さい種類でもなければ、ほかの方のところにあっという間に走りつきます。例えば犬が苦手なお年寄りが、自分に対して迫り来る犬に気付き、あわてて逃げようとして転んだりしたらどうなりますか。仮に犬が直接危害を加えなくとも、最悪足の要所に大きな怪我をし、二度と陽光の下を自分の足で出歩けなくなることもあり得ますよ。ご趣旨には賛同します。しかしながら、出された例えの中に、賛同しかねる、否、宋さんの配慮の欠如を感じずにいられないものがあり、思うところを伝える次第です。
今回は一言。
官僚云々のくだりは記載の志を持って入省される方が殆どで、優秀な事も記載の通りと思いますが、何時の頃からか「我省、我局の興隆のみにその大半の精力を注いている役人が
増えて、国民の視点が無くなっているのも事実でしょう。
国会議員のくだりもご指摘の通りと思います。
日本でも、正義の名のもとに、侵略戦争で数千万人もの命が犠牲になりました。
正義を声高に叫ぶときは注意が必要です。宋さんの言われるとおりです。
しかし、私はそれでも正義なしの世界は寂しいと思います。正義と思う方向へ少しでも進もうという気持ちは大切だと思います。問題は、その正義が正しいかどうかです。その検証はつねに行う必要があります。反省し、謙虚に学ぶ必要があります。
そのためには、必要な情報が十分に得られる環境が必要です。戦前のような大本営発令のような言論統制下では、正常な判断はできません。現在の日本もあたりさわりのない、無難な「不偏不党」の名のもとの無責任な言論が幅を利かせています。
現在、日本では正義へ向かって意欲、感情をまじめに吐露できるような状況ではありません。わずかに、右翼売文屋の排外主義的言辞がその捌け口になっています。
経済的にも思想的にも行き詰まった感情が、今回のような無意味な事件につながっているように思います。
何事にもモチベーションや目標の無い事ほどむなしいものはありません.
ただその対象が偏った考え,狭い考えであるが故のニュースが多い気はしています.
バランスの取れる考え方・態度・姿勢が大切なんですね.
右翼でも左翼でもない,垂直尾翼こそがいつの時代にも大切なんでしょう♪
私も若い頃は、官僚、ひろく公務員というものは、おっしゃるとおりの志を持った人たちと信じておりました。
しかし、現実に国家公務員試験(初級)を受けて旧大蔵省の面接を受けた時、接した面接官の態度、発言の横柄なことでまず幻滅しました。結局、大規模自治体の職員として定年を迎えましたが、そこでであった公務員というものの大部分は、残念ながらおっしゃるような高邁な志の持ち主ではありませんでした。自己保身事なかれ主義、日和見、それも地位が上がれば上がるほどその傾向が顕著にあるように骨身に沁みて実感いたしました。
日本の官僚、公務員が宋さんのおっしゃるような人たちであったなら、太平洋戦争も戦後のバブルの崩壊も今のような国家の体たらくもなかったのではないでしょうか。
劣化にも二種類あって、一つは事なかれ型、もう一つは間違った正義型だと、私は分類しています。官僚の劣化と言うと収賄事件だって昔から真砂の数ほどもあって今に始まったことではないでしょうが、個人レベルの収賄事件は、私利私欲に走ると言う一点でまだ、人間の本質に近くて可愛いとさえ思えてきます。(もっともトップの事務次官が臆面も無く夫人同伴でゴルフ接待を受けるとは空いた口がふさがりませんが)年金や薬害は事なかれ型、道路やダムの建設続行は間違った正義型だと思います。今は幕末と言うコメントもありましたが、幕末のような動乱期には若い、下級の官僚が頭角を現すから、まだ救いがあります。今の日本は元禄じゃないでしょうか。高度成長が鈍り、高齢化社会を迎え、でもボケるほど平和ですから下克上もありえない、社会全体に閉塞感が漂って、元来は優秀だったはずの高級官僚が、現状にどっぷり浸かっているうちに未来を描きにくくなってきて、劣化が進むのだと思います。だからどうしろと言う処方箋を、まだ持ち合わせませんが、少なくとも「官僚が・・」と言うくだりは、もう少し掘り下げが要るように思いました。
大事なのは、「愛」ですかな..。
難しいことを そうでもないと 楽しむ姿かな ...
可愛がってた犬を父親に保健所送りにされても何も言えず、子供の頃から(大人になってもずっと)父親に逆らえずにいた小泉容疑者が、官僚を殺害するというスキャンダラスな形で社会的に父親を葬り去ろうとしたのではないか...と。「目的は達成した。」と事件後に言っていたようですが、本当に達成したんだと思います。
世間が厚労省を悪人呼ばわりする風潮が、小泉容疑者に厚生省元事務次官を今回の事件のターゲットに選ばせた可能性はありますが、間違っても正義感からではないと思います。
SBの社員でしたが、
私が入社した頃は、
既に宋さんの言うことは
絶対でした(笑。
これを狭窄というのでは
ないですか。
宋さんの正義を振りかざしてたのでしょう。
でも、大の大人が、みんな、
戦線恐々としてませんでした?
ブログ開設おめでとうございます。と言っても随分経ってらっしゃるようですが、傍目八目終了して情報がなかったもので存じませんでした。
正義と狭窄は紙一重。
いつもながら鋭いご指摘だと思います。
数年前にできた健康増進法で成人がかかる成人病は不摂生が原因で起こる生活習慣病と名を変えました。どのような意図か透けては見えますが、ある意味での不健康な生活を否定する法律まで出来て、おまけに酒を飲む量、喫煙者人口まで数値設定として出来てしまっています。
それらを背景に一部の人間であった嫌煙者たちの主張が分煙から、タバコ廃絶に大きく舵を切っています。タバコが良い・悪いは別問題としても、この風潮はとても恐ろしいです。