差別が全部悪いとは限らない

「また人の注意をわざと引き寄せるタイトルをつけるね」と多くの読者が思われると思いますが、決してそれだけではありません。

中国人への差別を持つ日本人がいるように、日本人への差別を持つ中国人もいます。幸いにして私はその両方を冷静に観察できる立場にいるのでよく分かります。無知とコンプレックスの塊で向上心のない人々です。

しかし、「中国人は信号を守らない」、「中国人の労働モラルが低い」、「中国には言論の自由がない」、「中国食品の安全性が低い」などを聞くと私は差別を感じないのです。たしかに差別意識を持った上でそのような発言をする人もいるでしょうが、少なくともその「差別」を裏付ける事実があるのです。

「日本人は全員信号を守っているのか」、「日本に怠け者がいないのか」、「日本もタブーだらけじゃないか」、「日本も有害な事故米を流す業者がいるじゃないか」と反論する中国人もいますが、それは進歩を拒む人たちのロジックです。あるいは相手に悪意を感じるあまり、感情的になった人々の喧嘩です。

私は差別の意識があっても、それが本当である場合、素直に受け入れる勇気を持つべきだと思います。愉快ではないのですが、相手のためではなく自分のためにそれを受け入れるべきだと思います。差別に真実が隠れている時があります。これが「差別が全部悪いとは限らない」の第一の理由です。

実は弱い人ほど差別を好むのです。学校のいじめをみれば分かるように、本当に強い子はいじめのグループに入りません。また、いじめっ子が大人になると大成しないことも世界的な傾向だそうです。差別は差別されないための事前手段であり、差別される心を満たすためのバランス行為なのです。

しかし、人間は誰しも弱いのでどうしてもそのような誘惑に負けてしまうのです。この点において宋 文洲も決して例外ではありません。ついついそのような誘惑に近づきたくなる時があります。あるいは気が付いたらその誘惑にはまっている時もあります。

私がその弱い自分を知ったのは、自分が差別を受けた時です。相手が私よりも弱いのに私を差別する事実をみると、私は自分の弱さに気付くのです。差別を受けてはじめて自分も人を差別していることに気付き、反省のきっかけになります。これが「差別が全部悪いとは限らない」の第二の理由です。

優しい人と乱暴な人。努力する人と怠ける人。戦いに勝った人と負けた人。同じ人間ですが、それぞれの行いとその結果に応じて人々を区別することは当然です。金メダリストのお立ち台は銀と銅のそれより高いのは当然です。乱暴な人間から友達が離れていくのも当然です。優しく楽しい人をパーティや飲み会に誘いたいのも当然です。

ごく普通の区別をどうしても「差別」と言いたい人が世の中には居ます。その「差別」をなくすことによって自分が甘い汁を吸う人たちです。残念ながら世の中には全員が合意できる「区別」と「差別」の線引きは存在しません。これが「差別が全部悪いとは限らない」の第三の理由です。

どんな偉い人(組織)にも弱点があり、どんな成功者(国)にも失敗の歴史があります。だから誰でも差別される「口実」があって相手の都合によって差別されるのです。差別を受けること自体は普通のことであり、差別されていない証拠です。これが「差別が全部悪いとは限らない」の第四の理由です。

まだまだ理由がありますが、皆さんのお時間を大切にするために割愛します。

最後にくどいのですが、「差別が良い」はありえないのです。「差別が全部悪いとは限らない」と申し上げているのです。


この記事へのコメント
フランス人だったと思いますが、自由平等博愛とは永遠に実現しないから目的にするんだ。それが本当に可能だと思っているアメリカ人と日本人はこっけいだという文章をどこかで見た記憶があります。宋さんの趣旨とは違いますが、思い出しました。     「差別」というだけで思考停止状態になる方が多いなかで貴重なご意見です。
Posted by 松田 修 at 2008年09月19日 08:28
初めてコメントさせていただきます。
いつも楽しみにメルマガ拝見させて頂いています。

すべての差別が悪いわけではないのは、分かりますが、
その考えがどのように社会の役に立つのでしょうか。
差別を助長するだけのように思います。

差別と区別の分別を語った方が有意義だと思いました。
Posted by 金子 輝昭 at 2008年09月19日 08:38
国民性や所属する集団の特性としての違いというのは差別になるとは思いませんし、その違いによるメリット・デメリットがあると思います。確かに宋さんの言うとおりなのです。
「差別」というのは、それを一方的に悪い、さらには所属する集団や人間を全面的に否定するように言い切ることだと思います。

今回の宋さんのメルマガでは、実際に宋さんが言いたかった結論は明確に書かれていないような気がします。私は、この中にそういう違いを覆い隠すように、運動会で1位を讃えなかったり、実力テストの順位や結果を非公開にするようなことに対する意味の無さを感じました。
優れている、劣っているというのは人間そのものの評価の一部に過ぎないので、それを覆い隠すよりも、讃えるものをしっかりと讃えることで伸ばすという側面が重要だと思います。讃えられる結果を出せなかった人が人間として劣っているわけではなく、他の分野で讃えられるということが大切なのだと思うのです。
それも一つのWin-Winの形なのだと思います。
Posted by たくみゆとうあ at 2008年09月19日 08:51
たしかに全員が合意できる「区別」と「差別」の線引きは存在しないかもしれませんが、だから「差別は悪とは限らない」と投げ出すのも感心しません。
何が「区別」で何が「差別」なのか、それを積み上げてゆくことこそ大事だと思っています。
わたしは40代ですが、小学校の授業で同じテーマでディスカッションをしたことを鮮明に覚えています。恩師は不当な差別をなくす為にも、差別と区別の違いを話し合いを通して学ばせようとしたのでしょう。小学生でも、きちんとテーマを与えられれば、ここで書かれたような話も相当深く理解できたのです。
人の価値観が多様であればこそ、割愛していては何も伝わらないと思います。
Posted by m at 2008年09月19日 08:51
宋さん こんにちは
今回は・・・
人間は皆、聖人君子でないのが当たり前ですから、今回書かれていることは私にとっては当たり前のことです。
一見、自分にとってマイナスはことでも、それが自分の成長につながる事であれば、最終的にはそれはプラスになることがあります。仏教では「善知識」という言い方をします。
だからと言って差別を肯定するわけではないですよね。
Posted by 谷口 喜佳 at 2008年09月19日 09:10
 何時もながら宋文洲サンの議論はバランスがとれていて同感なものばかりです。自分について、学校でも職場でも特段のイジメにあった事もなくイジメたことなく来たと自負してきましたが、改めて思い返すと「それは思い上がりでは?」と今回自省しているところです。街を歩いていても、お年寄りや荷物を抱えている人達を蹴散らして(避けさせて)歩いていないか?等々を思うと、限りなく独りよがりをしている自分が居ます。               尚、二宮清純さんの意見、今回も納得です。しかし、何時だったかサッカー関連での帰化問題で、「ロペス・トウーリオは日本への愛情があるので良いが、ジュニーニョは・・・」の議論があったと思いますが、人の心の中は判らないのであって、全てワールドカップに出場したいとの思いでは共通と思います。何の違いもないと思いますが。 
Posted by 原 明夫 at 2008年09月19日 09:11
いつも楽しく拝見させていただいております。
正直なところ,首肯しずらいところもありますが,新たな視点でものをみることのできるとてもよい勉強をさせていただいております。

今回,コメントをかかせていただきましたのは,「差別が全部悪いとは限らない」第3の理由を拝見したからです。
「当然の区別を差別をいうひとがいる。それをすることによって甘い汁を吸うことができるひとがいる」明快な説明で,腑に落ちました。
通信簿の評価が差別といわれながら,入学試験には学力の区別が当然生じます。なのに,運動会の徒競走では順位をつけないほうがよいという風潮がかつてありました。
このことを私は大変理不尽だと思っていたのですが,今回の記事で自分のいいたい理不尽さを簡明に説明していただいたような気持ちがいたしました。
また,いままで思っても見なかった視点(理由)もあり,考えさせられるきっかけになりました。ありがとうございました。
Posted by nishi at 2008年09月19日 09:21
いつも楽しみにしています。

子供のころ、田舎では朝鮮人を差別していました。馬鹿にしていました。

しかし不思議なことに、小学校にも中学校にも、高校にも、大学行っても朝鮮人はいませんでした。

彼らに子供がいないはずはないのです。彼らは朝鮮人を隠して生きていたのです。

その証拠に会社には大学卒の朝鮮人がいました。

「朝鮮人、朝鮮人とぱかするな。」と差別されるのと、差別されるが故に朝鮮人であることを隠して生きるのとをはかりにかけて差別されない方を選んだのでしょう。

差別されると言うことは、無視されるよりは良いのではないでしょうか。

差別をされるということは存在をしていることです。存在をしていない方がどれほどつらかったでしょう。


Posted by 藤岡 at 2008年09月19日 09:29
今回も大変有意義な内容だととても感銘を受けました。
人間は感情の生き物だと常に私は思っています。以前、落合信彦さんが自書の中で人間は知らず知らずのうちに差別の心を持っている。たとえ親友でも、この男の息子とオレの娘は結婚させたくないなというような感情をどこかに持っている。それを理解する必要があるというようなことを書かれていました。
そのことをよく思い出します。感情を否定せず理解する。この考え方は私の人生を少なからず豊かにしてくれていると信じています。

頭だけで平等を理解した気になって単純化した価値観を押し付けようとする社会は誤りです。知り合いの子供さんが通う学校では運動会で順位をつけることが差別につながるとして順位をつけないことにしたそうです。それこそが最も悪質な差別であると思いますが。平等とは100の結果を出した人に100の評価を10の結果を出した人には10の評価をあたえることです。100の結果も10の結果も50の評価で済ますのは完全な差別です。規則でシビアな評価を封印した教育の現場では、勝者が敗者にするべき気遣いとか、敗者が次回勝者になるためのどうするべきなのかを考えるチャンスを奪っているのです。社会に出れば理不尽な不平等がうんざりするほど転がっています。人の嫌がることをコツコツやっていればいつかは報われると言っても、卑怯でずるいことしている人間の方が得しています。絶対に負けられないときに負け札をつかまされることだってあるでしょう。それでも努力することの必要性と意味を理解できなければ社会は不幸な方向へ転がっていってしまいます。
Posted by 清水善三 at 2008年09月19日 10:02
宋様

いつも、一ひねりに楽しく考えさせていただいております。現在、米国の脳性麻痺の学会に参加するためアトランタに来ております。昨日Martin Luther King, Jr.牧師の記念館に寄ってきましたが、いわれのない差別はけしからんです。絶妙のタイミングでのご意見で拝読させていただきました。区別と差別の線引きは難しいですが、正常と異常の線引きも難しいです。閾値が無く続いていて、人為的にどこかで異常としたりします。障害に関わる仕事をしていますが、最近「障がい」という言葉が使われています。個人的には言葉を換えても関係無いのにとは思っています。障害も個性、自分にも多少は他の方と違うところはあるし、どこで違っているかだけの差異で区別する必要があるときには区別すれば良いのではと思っています。ちなみに、私は歩いているときは信号を守らないことがあります。歩行者があるいは車同士が安全に動けるための信号であり、車が全く来ないときに、お上の言いなりになる必要はないとささやかな抵抗をしております。
Posted by 根本明宜 at 2008年09月19日 10:10
宋さん、お早うございます。
最初の台風が来ていますが、まだ残暑の日も多く・・・いかがお過ごしでしょうか。

さて今回は久々に(?)溜飲の下がる、読後感の極めて明瞭なコラムでした。差別なのか、区別なのかというのは、”差別問題”での常套句ではあります。むしろその二つの熟語の”区別”(明確な意味合いの線引き)が出来ていないと感じることがあります。それは差別問題について改めて深く自分自身に問いかけたり、誰かと議論したときに起こります。

弱者ほど自分の身を守るために、他者に対して、”差別的と感じられる言動”を行うというご指摘ですが、私も前々から同様の感覚を持っていました。

例えば自分の息子とその友人たちを見ていると、子供の世界は極めて残酷だなと感じることがあります。親の収入・住まい・所有する車・ペット、自身の容姿や体格・体型、学業成績、運動神経、所属しているクラブ・部活動・塾、習い事・・・とにかくあらゆる項目を用いて、他者を評価分析し、その結果が排他的な振る舞いに現れることが、しばしばあります。しかし当事者たちは、まだ年齢的にも”差別している・されている”という概念は無いでしょう。”こどもは残酷”というのは、誤解であり、正直・実直・ストレートなだけかもしれません。

ただこどもの中でも体格の小さいものが、自分を守るために、体格とは違うファクターによって、体格の大きい子を攻撃する、そしてわが身を守る・・・こういった行為が行き過ぎると、”差別と呼ばれるものの芽生え”につながる気がします。

ところで、このプロセスを冷静に捉えてみると、”区別(アナライズ)”と”差別(ディシジョン)”は連鎖的な、一連のプロセスとして捉えるほうが自然かもしれないと思います。

つまり何かの識別子というか、ファクターによって二者間(大抵はもっと多数ですが)の違いを、評価者の独断で識別(誤解を招きそうですが、これを日本語では一般的に差別化と呼ぶようです)します。その識別した結果をどう公表するかが”差別行為”に該当するように思えてなりません。

評価者の胸の内にしまっておけば、差別は発露せず、純然たる区別プロセスだけで完了すると思います。

趣旨がブレてきそうなのでこの辺にしたいと思いますが、私が言いたいのは、プラス評価であっても差別に該当する、という点です。なぜなら、相対的に弱者(プラス評価を与えられなかった者)の立場を下げる事につながるからです。(考えすぎると、無闇にひとを褒めることもできません・・・)

宋さんのおっしゃる”、「差別が良い」はありえないのです。「差別が全部悪いとは限らない」と申し上げているのです。”を私なりに誇大解釈しますと・・・、差別をするための分析プロセスの部分は、社会的に必要なものである・・・と認識してみました。

アタマの中の体操としては、何となくすっきりした感じがしますが、こんな自己満足をしても、不当にいじめられる人々を減らすことには何の役にも立ちません。もしかすると、そういった人々を減らそうという社会共通の意思はもともと存在しないかもしれません。生物として見たときに、優秀な遺伝子だけを残そうとする本能があるなら、”差別は人口コントロールや、人類の発展に必要なプロセスである”という危険思想に踏み込んでしまいそうです。

大いに脱線してしまい失礼しました。
なぜか宋さんのコラムを読むと触発されます。そしてその結果、ふだん見落としているような事をじっくり悩んでみる機会に恵まれます。その事に感謝をしていますし、またこういった機会を与えていただけるように、引き続きの執筆・講演活動を期待しております。それでは失礼します。

Posted by IT営業 at 2008年09月19日 10:16
[区別]と[差別]について一言。
この二つを明確に分ける基準は無い、と述べられていますが、日本語として二つの言葉の違いを明確にすることが誤解や混乱を防ぐために重要だと思います。
[区別]とは、合理的根拠に基づく分類であり、例えば、男と女、中国人と日本人、
[差別]とは、合理的根拠もなく[区別]を乱用して、恣意的な判断の根拠とする
ものである、と思います。
例えば、女は男より劣る、中国人はルールを守らない、云々というふうなものです。
言葉の定義を明確にしないで議論することが日本社会では特に多いという感じがしますが、改めるべき慣行だと思います。竹中
Posted by Homare Takenaka at 2008年09月19日 10:46
おはようございます
拝読いたしました

おっしゃる意味が分かるのと すべてには陰と陽があって立場や経験によって見方が変わってくる事

同じかもしれませんが自分側から発した考えと周りから発しているものの考え方が
渦巻いているので、一概に「差別が悪いとは限らない」のですね

おっしゃる通り、文化の違いとマスコミの報道 歴史 環境などによって隣国との一連の事案は偏った判断をしかねません。

もし、中国に親しい友人がいたらそうそう悪くばかりは言わないでしょうね

自分の中には人を責める心があります。これは、自分の心の弱さからきていると思います。ですから、日々この弱さと戦って人の心を傷つけない自分になりたいと願っています

いつも面白い切り口で課題を提供下さりありがとうございます

では、天候不順の折、お体には十分にお気をつけてお過ごし下さいます様お祈り申し上げます
Posted by 皆川 悦子 at 2008年09月19日 10:48
或る方が日本の教育は「人間にはすべて個人差がある。そのことを認め、尊重し合うことを教えていない。」と指摘されていましたが、宋さんですから、差別のお話を興味深く拝見しました。差別と云うか差を「認めること」には素直でありたい、差別を「すること」には気をつけたい、と思った次第です。
差には、尊敬したい差と、受け入れにくい差がありますから。ありがとうございました。
Posted by 田丸 孝 at 2008年09月19日 10:55
いつも楽しみに読ませていただいております。このようなストレートなご意見表明を読むたびに胸のすく思いがします。こういうご意見を書くことが出来、かつ読ませることができる位置を確保していらっしゃることに、心より敬意を表します。願わくば、本邦でもこのようなご意見をみんなに紹介したときに、みんなが「なるほど」と言える様な状況が来るよう努力したいのですが、私共風情がやると、「お前、何人?」(国籍のことではありません)「空気読めない」と言われるのがオチ、というところです。(なお、負け惜しみに、「空気読めない」というのも、農業等を生業として永年生きてきた人間の極めて重要な性分である、と思うのですが・・・。)
Posted by 外川 明人 at 2008年09月19日 11:09
人間は知識レベルが上がると複雑なことが理解できるようになります。
今回の結論はA=0、B=Xというような単純なものではなく
A≠0、B≠Xという、ちょっと難しいものであると思います。
複雑で曖昧で割り切れないのが、今の我々が生きている社会です。
この事実を理解して(理解しようとして)現実的に対応するのが大人であると考えます。
Posted by 西田正己 at 2008年09月19日 11:35
宋さん、こんにちは。
「差別」を深く考えて、教えていただきまして、ありがとうございます。
宋さんのメルマガは、いつも、とても理論的で、わかりやすく、正直で、しかも多面的で、さらに明快に言葉を選んで下さるので、読んでいてすっきりいたします。
「差別が悪いとは限らない」という表現の仕方も、「差別が良い」なら、差別は100%OKという立場ですが、「差別が悪い」で、差別は100%NOT OK、「とは限らない」で、差別は8,9割NOだけれども、区別と区別することが不可能ならば、1,2割は、必要かつやむおえないこともあるとおっしゃっているのだと理解します。
宋さんの高い視点から物事を見る目と、細部まで、きちんと見分ける目の両方の視点から、公正かつ、謙虚にのべられる意見を、これからも楽しみに、参考にさせていただきたいと存じます。
ありがとうございました。
Posted by てらおか みちこ at 2008年09月19日 11:55
宗さんのお話、いつも読ませてもらっています。
今回も含蓄のある話ありがとうございます。
良く判らないのが、中国や韓国で日本のこととなると
大騒ぎするニュースが流れてきます。例えば竹島問題
あれはどう捉えたらいいのでしょうか?一度考えを
聞かせ下さい。
Posted by 大田清人 at 2008年09月19日 12:52
お説ごもっともと思います。ただし、やはり差別という手段を用いるのではなく、相手の欠点・難点がもし事実であるならば、アドバイスという形で表明するべきと考えます。
Posted by 五十嵐 得郎 at 2008年09月19日 17:37
 宋さんの最近のメルマガの内容は1970年代、そう日本での戦後20年から30年、その時代の日本での議論を思い起こさせます。
 なぜ弱者や差別にこだわるのでしょうね。当時はたしかにそういう論調が至るところにありました。障害者団体が実力行使をしたこともありました。

 しかし今、、

「ごく普通の区別をどうしても「差別」と言いたい人が世の中には居ます。その「差別」をなくすことによって自分が甘い汁を吸う人たちです。」

が多いとは思いません。

宋さんの論拠は、現在の中国なのか、日本なのか、宋さんの幼少時の原体験がそうさせているのか、宋さんの文章には違和感を感じざる終えません。

 宋さんの文章に、以前は共感したことが多かったのですが、最近は違和感を覚えることの方が多いです。
Posted by 水野誠二 at 2008年09月19日 17:47
以前、「ちびくろさんぼ」の本が「差別」だといって絶版になったことがありました。僕は「差別だと言っている人の方が差別をしている」と思っていました。その後、本は再版されましたが、そのことを思い出しました。たいていは「差別だ」と言っている人の方が、「差別」の意識を持っています。今回の宋様の意見に賛成です!
Posted by 剣崎克彦 at 2008年09月19日 20:25
こんにちは。いつも楽しみに拝見しております。
さて、今回のメルマガについては頭で理解しようと努力をしましたが、やはり気持ちがついていきませんでした。「人の振り見て我が振り治せ」的なポジティブ意見は真っ当です。納得できます。努力を感じます。
でも、本当の「差別」はもっと汚い感情が渦巻いていませんか?自分を棚に置いて他人を蔑むドロドロした感情と言葉。私はそんな言葉を聞くと吐き気がします。
そして、「差別」は無知から生まれるものなんだと自分に言い聞かせ、諦めるようにします。そうでないとその人とは二度と会いたくないし、話ができないから。
もうすぐ夫となる在日中国人3世である彼に対する実の姉の発言に傷ついたばかりなので、言葉がきつくなり申し訳ないです。

ただ、「差別」そのもの云々も含め、どんなテーマでも自分の意見を広く伝え、色んな意見を聞くということは、とても大変ですが貴重な事だと思います。
Posted by F. Lixiang at 2008年09月19日 20:43
 宋さんの視点にいつも感心させられ、楽しみにしております。私、ブラジルに住んで32年になります。ブラジルの法律は、人種差別に厳しいです。法律で規制する以前に、この国では人種差別はほとんど無く、差別された記憶がありません。

 ブラジルの日系人は100万人で(国民の0.8%)、日本の在日韓国・朝鮮人の割合(0.8%)とほぼ同じです。日本にいるときは感じなかったが、日本では人種差別があると反省する次第です。

 「いわれのない差別はない。」差別には必ずいわれがあると言いますが、相手をよく知り、差別のない社会を目指して、地道な活動を、先ず家庭内教育からスタートさせます。

 宗さんのブログから学ぶ事が多く、大変有意義なホームページと感謝しております。いつまでも続けて頂きたいです。ありがとうございました。
Posted by 石田幸作 at 2008年09月19日 21:00
差別と区別は人間が人間で在る限り無くならないと思います。 差別や区別が全くない世界はユートピアの様に思えますが、実際にはつまらない世界でしょう。 そして人の違いや国の違いに価値観を見出せず低迷する様な気がします。 この違いが政治や経済の原動力になっているはずです。 なので区別する事はむしろいい事なのではないかとも思います。 差別は感情論で左右される傾向が強いので相手を蔑む意味合いが強いと思います。 

宋さんは中国人のマナーのなさ、日本人の決断力のなさなどマイナスな部分を再認識させられるのでいい差別もあると書かれましたが、マイナスかどうかは基準や価値観が違えばひっくり返ってプラスになってしまうものです。似た様な価値観を持つ人がどの程度この世にいるかで評価は大きく変わると思います。 そんな世界の評価など気にならないと思う人がある意味で強い人なのかもしれません。


Posted by やまやま at 2008年09月20日 01:33
「差別」という言葉について漢和辞典や中国語辞典、ウィキペディア等を調べてみました。その結果、中国では単なる「区別」の意味しかなく、日本におけるような正当な理由もなく不当な待遇を受けるという意味はないことがわかりました。
 とすれば、日本語におけるような意味の中国語はどう表現するのか、どなたか教えていただければありがたいです。
 テーマとズレてしまい、申し訳ありませんが、中国にも不当な「差別」はあると思います。
 近代社会以前の身分制社会においては、身分差別は当然で、それが社会・国家の道徳でした。儒教も長幼、君臣、男女の区別を基本としてきました。その時代においては、その区別は空気のように自然なものだったのでしょう。
 日本において「差別」が糾弾されるのは、それだけ日本が民主化してきた証拠だと思います。
 中国においても差別に対する徹底的な批判が巻き起こる必要があると思います。特に少数民族問題に関する楽観的な意見を聞いていますと、そう思います。
 中国は後20年もすれば米国と並ぶ大国になります。その中国が、人権を尊重し、世界の常識が通用する国家になることは、世界の安定にとって不可欠です。
 話が脱線してしまいましたが、お許しください。
 
Posted by 金田 邦彦 at 2008年09月20日 06:58
差別と区別の違いを論じても仕方がないの名も知れませんが、差別や区別が行われる意識の中に、その人や組織(国)に対しての評価が100点か0点の極端なものが差別とか区別とかいうものになるような気がします。
人も組織(国)もある一面は良いところがあったり、ある一面悪いところがあったりするものであって、全てが悪く、全てが良いということはありません。
だから、成り立っているのだというだから存在しているのだと思います。
だから、差別や区別がないことがベストとは言えないと言い換えてもいいと思います。差別や区別を生み出す自分がどれだけその存在の良いこと、悪いことを判断できるかが大事なことと思います。
企業における人材育成を考えたとき、
よくがんばっている者とそうでない者を100点と0点で判断するのでなく、個性として点数をつけていければいいと思っています。
Posted by 秋元康生 at 2008年09月20日 09:25
宋さんのご意見に全く同感です。幸い、小生は差別されている感じを持ったことなく後期高齢期に近付きつつ平凡に暮らしています。似たような言葉に「いじめ」があります。差別側の人間に大成したものは殆ど居ないようですが、「いじめ」わする人間も同じでしょう。然し、それは現代では見られなくなっているが、権力が世襲される場合は、親の笠着る馬鹿も出てくる。いじめっ子には大人になったら付き合ってくれる者が居なくて、暴力団に入ることになるぞと叱って見たらどうか。マスヤジ‘08.9
Posted by マスヤジ‘08.9 at 2008年09月20日 10:23
ほとんどの人は、メルガマ読む時間くらあるので、割愛しなください。
Posted by 百毒.com.cn at 2008年09月20日 10:57
宋さんの論理は明快で感心しました。
私もまったく同感です。差別をあげつらう人はまともではないと思っていました。
宋さんの論理的な整理力は素晴らしいですね。私も分析力を職業の武器にしているのですが、宋さんにはまったく脱帽です。今後も一刀両断を期待しています。
Posted by 上野 則男 at 2008年09月20日 12:28
拝啓、宗様
 初めてコメントさせていただきます。

 私も、最近、差別や不公平、不平等について考えることがあり、
今回は特に共感できたので
コメントさせていただきます。

 もちろん、合理的な理由の無い差別は反対ですが、区別は必要だと思います。
世の中の人で、全く同じ人はいません。
個性を認めるという意味でも、区別(というのは変な表現になるかもしれませんが)は
必要で、その線引きは確かに微妙です。

 不公平、不平等という点でも同じようなことがいえると思います。
私個人は、世の中は不平等、不公平なことが当たり前と思っています。
オギャーと生まれた時から、
同じ環境の人は居ません。
みんな違う環境にあり、家庭が違えば買ってもらえるものが
買ってもらえなかったり、育った地域が違えば教育が違ったり、
会社でも、同じような仕事をしても、
出世したり、しなかったりと、世の中はそんなものでしょう。

 問題はそのような不公平を理由に自分を卑下して生きるか、
それを認識した上で
前向きに生きるかだと思います。
(50歳になりそのことに気づいてしまいました。もっと若い頃に気づけばよかった)
 まあ、そのように色々あっても、
私は今、日本の今のこの場所に生きている幸せを
感じて毎日を過ごしています。

 コウノトリさんの気まぐれで、
日本の今の平和な世の中に生まれましたが、
もし、他の場所に生まれていたら、
戦場の中だったかもしれません。こんな便利な電化製品がなく、
不便な生活だったかもしれません。
気候も温暖では無かったかもしれません。
(決して、他の国や地域を差別しているわけでは有りません)
 また、同じ日本でも時代が違えば爆弾が降っていたかもしれませんし、
もっと前だったら無礼打ちでお侍さんに斬られたかも知れません。

 まあ、今の日本に生まれ、生活できる幸せに感謝し、
前向きに生きて行きたいと思います。

 以前に書かれたかもしれませんが、
公平、平等についての宋様のご賢察を、
そのうちブログに書いていただければ幸いです。

以上、よろしくお願いします。
Posted by もきぱぱ at 2008年09月20日 13:23
頭がいいから差別しないとか
頭が悪いから差別するとか
そんなのは差別に全く関係ありません

有名なのに
クー・クラックス・クラン(白人至上主義団体)というのがあります

クー・クラックス・クランで調べてみてくださいな
Posted by こんにちわ at 2008年09月20日 14:39
頭がいいから差別しないとか
頭が悪いから差別するとか
そんなのは差別に全く関係ありません

有名なのに
クー・クラックス・クラン(白人至上主義団体)というのがあります

クー・クラックス・クランで調べてみてくださいな
Posted by こんにちわ at 2008年09月20日 14:39
私も宋さん意見に賛成です。私は小さい頃いじめられたことがあります。でもその時に自分が差別されたと感じたことはないと思います。差別を感じる感性がないのかもしれません。だいぶ前に日本人が欧米に比べて意識が低いところは、欧米では有色人種を差別しているのに対し日本人は区別しているという意見でした。差別とは同じフィールドの中でのこと、区別は全く相容れないものとして受け入れないことという意味でしょうか。人を区別することは意識の低さなのかはわかりません。しかしあえて自分が差別されているかのように装い、利益や優越を得ているとしたらそれば詐欺や犯罪的行為であり、世の中にはそういう人も確かにいるということですね。宋さんには見えることが私には見えていないということだと思います。まだまだ精進が足りませんね。今回もありがとうございます。
Posted by Y.Watanabe at 2008年09月20日 19:13
いつも大変興味深く読ませていただいております。
私は66歳ですが東洋大学大学院で公民連携を勉強しております。
この春学期は福嶋浩彦客員教授(前安孫子市長)から「地方行財政論」を学びました。そんな訳で
宋さんのメルマガNO.70「世論右翼」P.S.欄に“安孫子”の記事が載っていましたので福嶋先生に転送しました。このたび先生から次のような返事をいただきました。
『お返事が遅くなってしまいすみません。宋文洲氏のメルマガの転送ありがとうございました。
前から、中国に行ったら「我孫子」は気をつけて言わないとダメだと聞いていましたが、あらためて興味深く読ませてもらいまた。
なぜ「我孫子」市になったのは、地元でも定説はありません。
アイヌの言葉から来たと言う人もありますが・・・不思議ですね。
福嶋浩彦』

Posted by 藤井 一夫 at 2008年09月21日 00:55
差別の問題はとても厄介な問題だと思います。私も中国、韓国、インドなどの若者と働く機会がありますが彼ら彼女らはココで言う差別感は感じさせません。逆の日本人(特に年齢が高い)の間に差別感を感じてしまうことが多いのです。差別は世界共通の難しい問題です。本当にイヤですね。
Posted by Slow Cafe at 2008年09月21日 17:38
差別を人の出身とか本人の努力等で乗り越えられない事項で卑下することであるとすれば、麻生太郎が、N氏を部落出身者との理由で総理大臣にふさわしくないと云ったのは明らかな差別です。
 差別する人は事の本質は追求しない人だと思います。
 中国人技術者は旧正月に本番移行直前にもかかわらず帰国する、労働モラルが低い
か、いやそういう習慣なので事前に調整しておけば、日本の正月に帰って、旧正月は徹夜で頑張る中国人は沢山います。
 多分差別する人は口先が上手いが、本当の問題解決はしない人で、総理大臣には最もふさわしくない人でしょう。
                 以上
Posted by 石井 洋二 at 2008年09月22日 09:18
≪ 差別と区別 ≫
差別と区を最も理解していないのは日本人だと思います。
私は海外出張の経験が多いのですが、一度日本航空に電話で抗議したことが有ります。
「何故日航だけがビジネスクラスとエコノミークラスの客を同時に機外に出すのか?」
都合上、シンガポール航空を良く利用する私にとっては、ビジネスクラスの顧客をすべて機外に出すまではエコノミー客をカーテンでブロックする風景は当たり前だったので、抗議しました。
他の海外航空会社も同様なのになぜ日航だけが違うのか?と不思議にいますね。
日航の回答は「海外航空会社と同様に対処すると、エコノミー客から”差別”だと抗議される」なのだそうです。
例えば、シンガポールまでの往復運賃はエコノミーのディスカウントで6万円前後、ビジネスのディスカウントで23万円と、4倍程度の差が有ります。
この金額差なら、機外への退出が5分程度早いサービスを受けても罰が当たらないと思いますよね。
シンガポール空港では、出国の際のイミグレーションの場所もエコノミーとビジネスでは違います。
ビジネスクラスの顧客はイミグレーションの前で長く並ぶケースはありません。
世界で一番サービスが良いと言われるシンガポール航空はこの区別による質の高いサービスによってその高い評価を得ています。
ホテル業も金融・証券業もそうですが、この区別によるサービスを充実させないとグローバルでは生き残って行けないと思います。
しかし、その区別によるサービスを差別だと騒いで企業のグローバル化を妨げているのが、善良と言われるごく普通の一般日本国民である事を指摘するマスメディアは有りません。
困ったもんですね。
Posted by 熊澤 壽 at 2008年09月22日 12:14
最初に「差別」を定義すべき、という竹中さんのコメントに全く同感です。それがあると、今回の文章にロジックの背骨ができ、更によくなったと思います。私の考えでは、「差別」は、意図的にせよ、無意識にせよ、悪意を持った価値判断が入っていると思います。なお、文章の趣旨には概ね賛同します。
Posted by 浅井英彰 at 2008年09月22日 12:48
『心の弱い人が、差別を好む。』と、心ある人は、皆直感していると思います。それでも、実際に差別をする人は、通常強者として振舞っており、周りの気の弱い大多数の人間を誘惑し、差別行為(暴言と暴力と無言の圧力を伴う)を、助長している場合がほとんどのように思います。

そうした時に、少数の真に心の強い人間に、できる事は限られているように思います。差別を好む心の弱い人間に、反省を促し、言動を改めさせるのに、効果的な言葉、意思疎通の仕方、毅然とした態度、適切な対応の仕方こそを、社会の常識(コンセンサス)として確立するべき時期に来ていると思います。

日本社会でも、いつか社会から差別とかいじめをなくす為の社会運動、社会現象(キング牧師とかガンジーの運動のような)が高まることを期待しています。日本社会に真の意味で民主主義の意識と土壌が、根ついて、差別に対する社会の感受性がもっと高まることを、期待しています。

差別やいじめに対する対処の仕方が、もっともっといろいろなコミュニテイー、小グループで真剣に議論されても良いように感じています。そのような機運が高まるまで、あとどの位の犠牲者(うつ病、自殺者)を、日本社会は必要としているのでしょうか?(交通事故死/年間7000人、自殺者/年間3万人以上、うつ病患者年間/数百万人、不登校児100万人以上)為政者、教育者、経営者、父兄、中間管理職、全ての階層の人達に真剣に議論して、自らのことと感じてもらう為には、一体何が必要なのでしょうか?日々疑問を持ちながら過ごしています。
Posted by 守口 均 at 2008年09月22日 17:15
国家によって文化や言語や歴史が異なることが、他民族への差別感情を抱かせる要因のひとつといえます。また、その国の教育が他国に対し批判的であり扇情的であれば差別感情は増幅するでしょう。日本が戦争中に中国でしたことの多大なる非は認めつつも、戦後の中国政府による反日教育は韓国のそれとともに行き過ぎと思えます。現在、これほどまでに中国人による日本での犯罪が多くなれば反中国感情もやむを得ない気がします。日本人の留学生が中国の大学の文化祭で破廉恥なことをしたといっておこりますが、中国人が一家を虐殺し老人の家に強盗に入り打ち殺すといったことはどうなるのでしょう。小さい頃の僕は父が韓国人を差別するのが嫌いでした。しかし、僕が大人になって韓国人と付き合うとものすごい距離感を感じます。1世代では乗り越えられない壁です。違いを認めつつ生きていくしかない気がします。
Posted by 嶋田龍一 at 2008年09月25日 18:13
だいぶ以前より拝読させていただいております。「いじめ」の問題だったと思います。宋さんのお話は、時には同感できないこともありますが、80%は宋さんの意見に賛成です。宋さんのブログは、私には貴重な羅針盤になっています。そういったことで、少しは宋さんに恩返しがしたいということもあり、2ヶ月ほど前、中国の高校生(17歳)を一晩だけですがホームステイに迎えました。そのことによって、さらに未来のアジアに明るさを感じました。日本で活躍する中国人、中国で活躍する日本人が増えることを希望しています。
。ちおkとm期には
Posted by 有馬久晶 at 2008年09月25日 21:11
国交省 中山大臣に差別された大分県人です。問題発言の後、全国テストなどの情報を漁りましたが、言い得て妙(当たらずしも遠からず)という感じでした。今考えれば彼の発言も的を射たものだったのかもしれません。大衆が理解していない事を唐突に言った事と説明が足りなかった事が彼の悪かったところです。

大臣はかくあるべきという既成の型にはまった量産没個性の大臣よりも枠からはみ出したバイタリティ溢れる大臣の方が、良い仕事をしていただけるように思います。
とかく日本人は型に嵌めたがる民族ですので出る杭は打たれますね。

型破りの象徴であった小泉氏も引退を表明しましたので、足を引っ張り合うだけが仕事の小政治家ばかりが増える事を危惧します。これは政治家に対する差別かな?
Posted by 清松 新治 at 2008年09月29日 12:57
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