私の祖父は苦労して蓄積した家財と土地を奪われた上、迫害され若くして亡くなりました。彼を収奪し死に追い込んだのはそれまでの可哀想な貧農であり、今で言う弱者達でした。祖父と同じ立場の人の中で生き埋めされた人も居ました。
「共産革命」は最も貧乏だった人々に無法の権力を与え、それまでの強者を徹底的に迫害しました。あの非人道的で暴力的なやり方は、強者のやり方をはるかに超えていました。
しかし、権力についた元弱者達は特権を乱用し、人権を無視し、金や女に溺れていきました。その節度の無さは、権力と富に飢えていた分、元強者をはるかに超えていました。
魂の綺麗さは、人の強弱や富の有無とは関係ありません。弱者が綺麗な心の持ち主と考える風潮は妬みであり、欺瞞です。
現代において、身体障害者や少数民族や貧困層への差別排除は正義として世界的な支持を得ています。真に嬉しいことですが、弱者補助が弱者美化に繋がってはなりません。
街で見かける身体障害者や高齢者の中には、マナーや礼儀を守らない人がいないわけでもありません。他人のせいで自分が障害を負い、年をとったような態度です。この福利がきちんとした日本では、身体障害や高齢はぜんぜん不幸ではありません。不幸なのはそのような魂を持ったことです。
国際政治も同じです。小国の権利を踏みにじる大国は非難されるのですが、小国の暴虐は咎められるところか、同情されてしまいます。
武力は紛争を解決できないことを分かっていながら、あえて南オセチアへの武力侵攻を敢行したグルジア。しかもオリンピック開催中のタイミングを選んでの挑発ぶり。ロシアによる南オセチアの独立承認は容認できませんが、先に暴力に訴えたグルジアが同情される国際世論はいったい誰によって形成されたでしょうか。
弱者は格別に綺麗な魂の持ち主ではないことに加えて、汚い魂を持つ一部の政治勢力は、常に弱者を利用してきた世界の政治史があります。革命に利用される弱者、革命を利用する弱者。大国に利用される小国、大国を利用する小国。利用する側が利用されたり、利用される側が利用したりしますが、同じ魂が同じ原理に基づいて異なる条件下で働いているのみです。
大小強弱と関係なくわれわれ人類が自分の魂に共通して暗黒の部分を持つのです。大小強弱によって人類の魂を仕分ける発想は魂の反省を妨げているだけなのです。
P.S.
読者の皆さんへ
前回のメルマガについていろいろとコメントをいただきありがとうございました。
「世論右翼」のタイトルは「ネット右翼」にちなんで軽い乗りで付けましたが、「世論左翼」にしても良かったです。極端を走ることを表現したかったです。このごろ左翼の組織の話題も殆どなくなったため、「世論右翼」のほうが分かりやすいと思いました。
中国もそうですが、実は左翼と右翼は非常に気持ちが通じ合うそうです。一方から脱退した場合、非常に高い確率で反対側のほうに入るそうです。戦前の極右の朝日新聞が戦後に極左になるように、彼らの共通の本質は極端を走ることであり、主義主張そのものではないのです。
また、私は「翼」の存在は非難されるべきではないと思います。左右のバランスさえ取れれば社会を前進させる原動力になると思います。ちょうど鳥が二つの翼で速く飛ぶように。しかし、片方の翼が機能しない時は要注意です。
それから「週刊ポスト」への寄稿で「操」を取り上げましたが、とても嬉しいコメントをいただきました。札幌に来たばかりの時に中国語を教えた「少年」からのご指摘です。「教え子」から私が知らなかった「操」の経緯を教えてくれました。興味のある方はどうぞ前回のコメントご覧ください。実名(津本 佳比古さん)によるコメントです。
私は20年前にその少年と出会った時の印象を今でも忘れられません。女の子のように見える可愛らしい彼が、いきなり綺麗な北京語で私に挨拶してくれました。お母さんの説明を聞くとびっくりしましたが、彼がたまたまNHKから流れてきた中国語(講座)が聞こえてきて、その音調に興味を持ち、勉強したいと言い出したそうです。
私は彼に中国語を教えたよりも、彼の遊び相手になっただけでした。しゃべった言葉をその場で覚える人には、生まれて初めて会いました。
これがきっかけで佳比古ちゃんの家によく遊びに行くようになりました。ご飯を食べたり泊まったりいろいろともらったりしていました。深夜までいろいろと語り合っていました。不思議なことにまだ小学校低学年なのに佳比古ちゃんはずっと大人の話に付き合ってくれました。
家庭教師もつかない、塾も通わない彼ですが、学校でのテストが95点の科目があると泣いてしまいます。嬉しくて泣いたのかと思うと、なんと100点じゃないから泣いていたのです。呆れるというかうらやましいというか、とにかくこの少年は普通ではないと思いました。
その後、佳比古さんは早稲田の政経に入って大学院にも進学しました。今普通に商社に入って働いているようですが、普通の人にこそ普通ではない人がたくさんいるものです。
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新聞やテレビで世界の動向を見るにつけ、今の日本という国はやはり穏やかな国なのだなあ、と改めて思います。
以前はなかった「無差別殺人」などのニュースが日々報じられてはいるものの、一歩街へ出た時、それを常に意識させられる状況にはありません。
自分は何という幸せな国に生まれ育ったのかとつくづく思い、いつも感謝しています。
願わくば、この国にかつてのような不幸な状況が再生されないよう、祈り、努めたいと思います。
お父上のことは人民裁判のことですね。
被圧政者が転じて圧政者になることは
人間誰でも残酷性を持っているという
証拠ですね。
人間は間違いなく性悪です。
それを教育や反省によってマトモな人間性
を維持できると思います。
マスコミの弱者には無条件に味方する態度には辟易します。
私も朝のラッシュ時に身障者や高齢者が
周囲を気にせず低速度で歩き、急ぐ人の妨げをしているのを見て「この人に何の権利があって大勢の人の行動を制限することができるのか,障害者は老人はそんなに偉いのか?」と思っています。
自らは「若者は席を譲らん」と苦情を言いながら自分が座ると買い物袋を平気で横に置く
老婦人は大股開いて座る若者よりモラルが
低いと思います。
ただ高齢者は不幸とは思いませんが(全員平等に訪れますから)身体障害者が不幸ではないは言いすぎです。
どの国に住んでいようとも身体障害は不幸ですよ。今ご自分の足が動かなくなったとしたら不幸でしょ。全体はよい指摘をされているのに残念です。というより訳のわからない市民団体からのクレームを受ける口実に使われますので気をつけてくださいね。
いつもこの金曜日の朝を楽しみにしています。
弱者の保護というのが美化されて来てしまうと、やはりそれを逆手に取って「なんであなたはそうしないのか!」と非難する雰囲気が出てきたりもします。でも、弱者の保護はあくまでも好意であって、義務ではないと思うのです。
妻が妊娠中に大きなお腹を抱えて満員電車に乗らなくてはならず、優先座席の近くに居たにも関わらず席を譲ってはもらえず、非常に怖い思いをしたそうです。それ以来は無理やりにでも予定をずらしたり、タクシーを使用していました。それでも、優先座席であっても席を譲るのは好意であって、確かに義務ではないのです。お年寄りや妊婦に何故席を譲った方がいいのか、自分の身になって考えるようになって初めて好意が生まれるのだと思います。
その時お腹の中に居た子が生まれて、先日、私が抱っこして電車に乗っていた時に、優先席でも何でもないのに少し離れたところに座っていたフランス人女性が席を譲ってくれようとしました。優先座席だから、妊婦だから、60歳以上になったから席を譲るべきだというのではないのです。人間としてのコミュニティーの中での助け合いの一つでしかないのだと感じました。
グルジアの件では武力行使の必要性の議論以前の話として、露と欧米の思惑によって増幅されて複雑になり、本来の目的や状況がよく見えなくなってしまっています。弱者が虎の威を借りたり、また押し付けられたりということもあって、その状況を利用されているフシもあります。ここには、「助け合い」の意味合いの弱者保護ではなく、エゴむき出しで自分の都合の良い方に助太刀するという話なのではないかと思います。ただ、武力行使で人が死ぬというのは事実で、それは弱者であっても強者であっても本質的に避けるべきものなのです。どういう理由でそれが避けられなかったのかは解りませんが、それがきっちりと議論されてないのは確かに不思議な感じがします。どちらかの立場に偏って見てしまっている可能性がありますね。
それは、都合の良い方への助太刀する視点そのものなのかも知れません。
同じ汚い魂でも、影響力の強いもの(国、団体)の方に厳しい目を向けられるのは当然かと思います。
「共産革命」で迫害された人々の話や、金や女に溺れていく元弱者の話は耳にしていましたが、
生き埋めなどの非人道的なことが行われていたことは知りませんでした。
ところで、この記事を読んでいて思ったのですが、
ぜひ、宋さんに日本で「最も強い弱者」といわれている被差別部落民について
語っていただきたいと思いました。
よろしくお願いします。
最近落ちぶれていく自身の魂を綺麗にせんがために。。。
というくだりですが、「街で見かける身体障害者や高齢者の中には、マナーや礼儀を守らない人がいないわけでもありません」ことは解りますが、それが気になったことは一度もありません。「不幸なのはそのような魂を持ったことです」とも思ったこともありません。
どういう例を見て、宋さんはそのように感じられたのでしょうか。私の周りの人も、同じ疑問を持っています。この段落で宋さんの言いたいところが解りません。
障害児、障害者が、団体を作って活動することがそれに当たるのでしょうか。
以前から「弱者への寛容」についてのお考えをお持ちであることは存じています。小国への寛容に言及するために例として挙げたことだとは察しますが、一度宋さんの障害児、障害者観を一度拝読したいと思います。
これは、根本的に一人一人が相互に尊敬しあう知的人間として、他の動物と異なる意識改革を行うことが大事と考えます。
そうなる為に教育、道徳、家庭環境、公平な政治等により人間一人に対して徹底して有用な精神を植え込むことが必要と考えます。その中に自然と本質的な人間本来の姿が見えてくるのでは無いでしょうか。
そこで一人一人が成長することになり、弱者強者等の差別なく、どんな場合においても、何かの事が発生しても、協力しあう自然的な関係となるのでは、と考えます。
直ぐに変化は不可能です。そこで現在にて指導的立場にある人が、長に立つ意味合いを深く認識(政治、経済、社会等の中心者)し、一人一人の改革が大事なのだと徹底した、改善を実施していく事と必要と認識します。
世界中の争いごとは、過去の矛盾の清算なのかもしれませんが。
ただ、そんな中でも本当に必要なものと欲しいものを区別していくだけの、魂の強さは保って生きていたいと思います。
責務として、ここで発言されているとしたら、その影響力は小さいものです。
ぜひ、当時の共産革命、文化大革命の歴史を検証するような公的機関、博物館、歴史記念館を作るべくご尽力いただきたいと思います。
そういうものが何処にもないのが大変不思議です。さもないと、宋さんたちの世代が亡くなった後には、何も残りません。それが一番恐ろしいことではないでしょうか。
まったく仰る通りだと感じました。
宋さんの言われる「魂」とは人間の精神性のことだと思いますが、今の時代に一番必要なものはこの精神性を高める事だと思います。
様々な国で、様々な体制の下、様々な立場で沢山の人間が生きていますが、個々が自己の精神性を高める努力が出来るか出来ないかで人の幸・不幸が決まってしまうと言っても過言ではないと思います。それは弱者と強者という言い方にも拘わってくるのではないでしょうか。
先日、某TV局のチャリティ番組で、盲目の少女が水泳にチャレンジしたレポートがありましたが、その中で彼女が発した言葉「私の目は走るのが遅い人の脚と同じ、見ることが苦手なだけ」に感銘を受けました。その番組の批判は別にして、私は真実の言葉を聞いた思いでした。
>大小強弱と関係なくわれわれ人類が自分の魂に共通して暗黒の部分を持つのです。大小強弱によって人類の魂を仕分ける発想は魂の反省を妨げているだけなのです。
暗黒な魂(精神性)を磨き、綺麗な魂(高い精神性)にする努力をより多くの人がおこなうことで、大小強弱で仕分けする発想をなくしていくことが出来るのではないでしょうか。
21世紀に入って、急激に「無法の権力を与え」られているような感を持ちますが、
街で見かけるマナーや礼儀を守らない女性たちを見るに付け、
「汚い魂を持つ一部の政治勢力」に利用されているだけではないかと危惧しています。
> 街で見かける身体障害者や高齢者の中には、マナーや礼儀を守らない人がいな
> いわけでもありません。他人のせいで自分が障害を負い、年をとったような態
> 度です。この福利がきちんとした日本では、身体障害や高齢はぜんぜん不幸で
> はありません。不幸なのはそのような魂を持ったことです。
宗先生らしからぬ事実誤認のまま勢いに任せての記述に見えて残念です。
「魂が綺麗でない」人が、健常者(この言葉も嫌いですが、)と同じくらいの比率で障害者・高齢者にいておかしくはありません。
おそらく、宗先生も障害者でないマナーの悪い人を山ほど見られていると思います。
では、障害者等で「魂の綺麗でない」人を敢えて取り上げられた心は何か。
それは、街で障害者等を見ること自体を「珍しい」と思う心ではないでしょうか?
依然として多くの障害者は「街に出る」ことを制約されています。
日本には法的に障害者として認定された人だけでも約650万人います。総人口の約5%、それ以外にも法的には障害者にカウントされない障害者(発達障害者や知的障害者の多く)も同じくらいいるとも言われています。
山の手線1両(1本ではない)に1人や2人、障害のある方がいてもおかしくない数なのですが、現実はどうでしょうか?
もしかすると、「魂を汚す」くらいの努力がないと街には出られないのかも知れません。
そんな日本が、「福利がきちんとした」国でしょうか。
仮にそれなりの「福利制度」があったとしても、それを自由に使うことに様々なバリア(人々の心も含めて)が張り巡らされ、アクセスできない以上、「きちんとしている」と言えるのでしょうか?
障害があることも年をとることも、確かに他人のせいではないかも知れませんが、それ以上に、自分のせいでもありません。
「障害」や「加齢」自体は不幸ではありません。が、宗先生以上に、一面の一部だけを捉え、偏見と差別を捨てない人々に取り囲まれた「障害者」や「高齢者」は不幸以外のなにものでもありません。
現時点で「魂が綺麗でない」ことだけを見るのではなく、なぜ「魂が汚れた」のか、あるいは「汚された」のか、それを考え、「汚さない・汚させない」行動を始めない限り、「魂の汚された」障害者はなくなりません。
蛇足ですが、宗先生は「身体」障害と限定されておりますが、これも「知的」、「精神」、「発達」障害などを抱える人に対して何らかの区別を感じられているからでしょうか?
まさか、「身体障害」には「魂の綺麗でない」人もいるが、「知的障害」はみんな「魂の綺麗な」人ばかりと考えれているのか、あるいは「魂の綺麗さ」云々を言及するまでもない存在と考えられているのか、大変興味深いところです。
今回のメルマガを読んで、真っ先に思い浮かんだのが、ディケンズの名作「二都物語」の一場面です。それまで虐げられてきた市民が、フランス革命直後の混乱の中、虐げてきた貴族に対して、スプラッター映画さながらの虐殺を行うシーンです。ディケンズは「この作品は綿密な取材によって書かれたものであり、行き過ぎた誇張はない」と言っています。弱い立場だった人が権力を手にしたとき、フランスでも中国でも同じことが起こったのでしょう。恨みをもって恨みに報いることには賛成できませんが、やはり自分がその立場だったらどうなるのかわかりませんね。
さて、街で見かける障がいを持った方々の一部にある態度ですが、最近そういうシーンに出会わないためか、気になることがありませんが、かつては、色々なシーン出来になることがあったことも事実です。
しかし、ここ数日、テレビ番組でパラリンピックが話題となり、その中に出てくる選手達の活躍ぶりを見ると、障がい者の意識も、いや、本質も変わってきたのかな?と感じてしまいました。
戦争も、弱者が強者を利用している部分があると感じています。日本でも、原爆の投下があり、それが切っ掛けで敗戦へ足早に向かったと感じています。その原爆を投下した米国は非難されるべきなのでしょう。しかし、最初に真珠湾に停泊していたアリゾナ号を襲撃したのは日本です。個人的には、アリゾナ号の記念館がハワイにあり、原爆ドームが日本のヒロシマにあることは、両国にとって良いことだと考えています。しかし、その双方を、双方の国民が充分に理解し、各々の痛みを知ることが、弱小の魂を綺麗にして行くことに繋がるのではないか?とも感じています。
前回記事に関するコメントで、極右が極左に変容するという行は、かつて戦中の特高警察の方々に極左勢力へ変わった方々が多かったという話に似ているような気もしました。。。
今回も論長論短を有り難うございました。
先日の話ですが、
私は今、妊娠8ヶ月で朝の通勤ラッシュを少しずらして出勤しているのですが、優先席で暴睡している女性2人の前に70歳前後と見える婦人が2人立っていたので、「見ていられない光景だ」と思い、その暴睡している女性2人に「ここは優先席ですよ」と起こして交代させました。
こんなことをしている妊婦もめずらしいのでは?と思いますが、そこにいたすべての人たちの「気づかなければ関係ない」という心に落胆しました。
別に、優先席で優先しないことに腹が立つのではなく、優先席なのに、寝ていたり、携帯電話で遊んでいたり・・・そういったルールを守らないことが許せないのです。
これは、障害者、健常者、強者弱者と言っている人たち、すべて関係ないと本当に思います。
別の話になるかもしれませんが、私は日本テレビの24時間テレビにいつも疑問を感じます。
身体障害者がそんなにすばらしいのか?と。
こんなこと言うのもおかしいですが、テレビに出た人以上に障害を持っていて、優れた才能(努力)を持っている人が私の周りにいます。
もちろん、健常者より努力をしなければならないことが何倍もあると思いますが、彼らはそれを特別扱いしないし、自然の流れのように何でもこなすので、こちらも負けてられない!といった感情だけです。
話のゴールが見えないので(笑)終わらせますが、
魂はその人自身だと思います。
http://www.bekkoame.ne.jp/i/ga3129/423yositune.htm
全く同感です。生活保護も含め批判しにくい
空気に満ちています。普通の人の税金が使われているのを考えると少しも感謝の言葉でも出ないのが不思議です。朝日・創価・共産にコメントして欲しいです。
前期高齢者
人類の持つ暗黒面は普遍の事実であり自分自身も例外ではないことを受けとめることは実に不愉快なことです。
しかしこの事実から目をそらして見て見ぬふりする事は大事な事への気づきを損なう事になりかねません。
「モンスターペアレンツ」や「クレーマー」等の増大の問題にも関連するのではないかと考えます。
又、組織運営においてこの点をおろそかにした結果が「大分教員問題」や「大相撲不祥事」等に繋がっているのではないでしょうか。
@弱者補助が弱者美化につながってはならない。
A身体障害者や高齢者の中には、身体障害を負ったことや高齢であることを、まるで周囲の人の責任であるかのような態度で、当然のように特別な対応を要求する人がいる。
B福利のきちんとした日本においては、衣食住にすら窮乏するわけでないので、身体障害や高齢は全然不幸ではない。
C不幸なのは、特別な対応を受けて当然だというような魂を持ったことだ。
これらの比喩に拘泥し、文章の全趣旨から外れた議論を展開するコメントもあるようですが、それはそれで内容的には説得力があると思います。
人間の魂は、大小強弱に関係なく、暗黒面に陥る危険性があり、弱者が清廉であるとは限らないということなんですね。勉強になりました。
障害者の件。
納得がいきました。
今まで疑問だったことがありました。
法律で従業員の何%は障害者を雇用しなければならないことが決まっています。
特に公では積極的に取り組んでいるようです。官公庁ではかなりの人が採用されて実務についています。
ある時、三鷹の職業安定所に求人に行った時、就職氷河期と言われた時代にもかかわらず、障害者の担当者は「受付まで何時間掛かるかわからない。並んで。」とけんもほろろでした。
その日は混んではいませんでした。
長年おかしいなと思い人にも話していました。知らず知らずのうちに心の中で障害者を美化していたのです。
障害者はいい人だ。だから他人に対してもおもいやりある態度をとるものだと思い込んでいたのです。
考えたら、障害者でもすべて魂がきれいとは限らない。当たり前のことです。
同じ事を障害者でない人にされたとしても、変なやつがいるなぐらいですませて、長く心に残ることはなかったでしょう。
魂の問題だったのです。
障害者高齢者、弱者イコール魂も美しいとの思い込みは間違っていたのです。
障害者高齢者も同じ人間でわれわれとまったく違わないのです。
今回の内容は、大変共感できる内容であると同時に、表現として上手くない部分もあるように思えました。
弱者という立場に甘んじている人々が、
「弱者であるがゆえに強者とみなされる他人に対する不条理を行うことは正義である。」
という考えを持つことへの危機感は私自身も持っております。
しかしながら、これには魂の清廉度は関係ないと思います。一人の人間が正義だと思うことを、強い意志で実行していくことは、清廉な魂の持ち主でなければできないことであるからです。
問題なのは、他人に危害を加えることを正義だと考えてしまうことです。弱者であるものが救済を求めたり、弱者にたいして救済を行うことは清廉な魂を持つ者の仕業です。でも、それは誰かに不条理な危害を加えてまですべきことなのでしょうか?この部分をもっとよく考えることができるようになることが大事なのだと思います。
宗さんがグルジア問題から障害者問題まで言及しているのは、弱者救済のため、他者に危害を加えるというロジックが同じであるからだと思います。小国救済のために軍事行動をとるのも、電車の中で障害者や高齢者のために寝ている健常者を起こすのも同じです。弱者であるなら、誰かに危害を加えても良いと考えることが恐ろしいのです。
もう一方進んで記載すると、組織人でなくなるから論文は翔けないでしょうね。
この論文を読んで、ドクトル、ジバゴの小説を思いました。
ドクトル・ジバゴも苦難の中で生きることが出来たのは、偶然の一例ですが。やはり、ドクトルであったからでしょうね。
その小説の精神は人は忘れない生き方が必要ですね。
宋さんの鋭いご指摘はいつもなぜかストン、と落とし所に落ちるような感覚があって、いつも楽しく拝読させていただいております。
今回のコラムでのお話も、さすがは宋さんだなあ、と思わされました。
私の妻は生まれながらに障害を持っています。障害があるからと言って特別でもなんでもないのです。普通に夫婦喧嘩もしますし子供にも健常者と同じく大きな愛情を注げます。
宋さんは人の心を魂と呼んで表現されておられましたが、われわれは誰しもその魂を磨くことの出来る権利を持っていますね。
魂を一生懸命磨こうとしている人は、そうしていない人、またはそうしたくない人から見れば羨ましく見えるのかもしれませんね。私もそういった人々の言葉のみクローズアップする最近の風潮を快く思っておりません。
宋さんの軽快な語り口、これからも楽しみにしております。
自分で考えて自分でなにかを実行する事を、先回りされてしまう事が当たり前になってしまうと、それはとても不幸だと思うからです。アシストは必要だと思いますが保護や過保護は必要ないと、強く思います。それは障害者の話だけではなく、子供や部下を一人前の大人の人間に育てる事にも繋がる話です。
弱者とされている方々が自分のできる範囲で自立し、働いて税金を納められる自分を誇りに思えるように、周囲の友人や誰かがなにもかもしてしまうのではなく、やってみてどうしても出来ない所だけを、率先する事なくあえて「頼まれてから」手伝える様に、互いの意識を向けられるようになるといいですね。
口先だけの言葉ではなく、感謝の気持ちを生むというのは、周囲の過保護をやめる事なくしては出来ないと思います。
福祉方面に税金を使う事に対してや、身障者の方が混雑時に公共施設を利用する事に関しては、明日は我が身でもっと余裕を持って感じてもいいように思います。
>その暴睡している女性2人に「ここは優先席ですよ」と起こして交代させました。
一面的で想像力に欠ける正義感を振りかざすのは感心できません。
爆睡するぐらい疲れてたのかもしれませんよ。違うと言い切れる材料をお持ちでしょうか。
優先席は妊婦や老人だけでなく、けが人や体調が悪い人、疲れている人のためのものでもあります。
今回のコラムの主題は、まさにあなたが見せたような一面的な正義感についての懸念であると思いますが。