世襲、歴史の皮肉

「小泉純一郎さんが首相の時、現首相の安倍晋三さんと一緒に北朝鮮で金正日総書記と会談するシーンがテレビに流れた時、僕は変なことに気づきました。小泉さんと安倍さんは金総書記と価値観や主張は正反対ですが、この3人に妙な共通点があります。それは『世襲』でした。」

これは2006年に「日経ビジネスオンライン」に寄稿した私のコラムの言葉です。テレビであの3人の硬い表情を見て、私は「この3人なら問題をより複雑にするだけだ」と思いました。

過去の歴史を調べればわかりますが、政治の主義主張よりもよほど政治家の素質のほうが歴史に重大な影響を与えてきました。これは企業の経営理念よりも経営者の素質が企業の運命を左右するのと同じ理屈です。

もし、「国をリードするトップ政治家の世襲率」という調査があるならば、間違いなくそのトップに躍り出るのは日本と北朝鮮でしょう。やっと「世襲の問題を正すべき」というコンセンサスができた今だから言えますが、数年前ならきっと皆さんに「悪意がある」と思われたでしょう。

非公開の場面では、私はずっと前から日本政治の世襲問題を言い続けてきました。「選挙の結果だから」とか「二代目を差別する訳もいかない」とか「ブッシュ大統領も二代目だから」とか、立派な言い訳はたくさん聞かされました。

一つ一つ反論するのは面倒だから話の合う友人同士でない限り、話題にするのも面倒でした。民主党が世襲の制限をマニフェストに入れたり、自民党の有力議員も賛同したり、あの「親ばか」を隠さない石原都知事でさえ「世襲はよくない」と言ったりしている今、私はこの変化にむしろ驚いています。もっと長い時間がかかると思っていたからです。

世襲が良いかどうかが本日のテーマではありません。この是非を議論する気力もないからです。財産の相続は法律によって保護されているので非公開の株式会社の相続はそもそも世襲ではありません。

保護対象ではない公職などの立場がなんらかの社会的要因によって結果的にフェアではない形で相続される場合、これは世襲そのものです。小泉元総理の息子さんが地盤を継承する公的理由はどこにもありません。その特権は「選挙」というカモフラージュの下で親から子へと継承し、今はさらに子から孫へと世襲しようとしているところです。ちょうどこの時期に二代目の金正日書記も同じことをやっているのは歴史の皮肉でしょうか。

改革を絶叫する小泉さんはどうして中途半端な郵政改革だけに拘ったかも分かるような気がします。彼も他人に改革の痛みを呼びかけながら、自分が痛む「改革」をしない訳です。「世襲が良いか悪いか、私は国民に聞いてみたい!」。もし、彼がこんなことも言えるならば、間違いなく歴史に残る元総理になるでしょう。

世襲問題の根の深さは政治家などの保護対象だけにあるのではなく、その政治家などと一緒に特権の享受を期待する民衆にもあります。これは銀行と企業の株式の持ち合い問題とまったく同じで、必ず馴れ合いを招き、優秀な人材を排除し、社会の発展を阻害します。

毛沢東の孫はレストランなどのイベントに顔を出して「毛沢東の孫です」といって出演料を稼いで生活しています。中国にも問題が山ほどありますが、資本主義か社会主義かという単純な構図で政治の質を論じる時代は終わったように思えます。

嗚呼、「社員」

このメルマガを読む方々の多くは「社員」と呼ばれていると思いますが、この「社員」という言葉について考えたことがあるでしょうか。

文化大革命の中国には「人民公社」がたくさん誕生し、その辺の農民の殆どが「人民公社」の「社員」になりました。朝に一斉に出勤し、「愛社精神」が叫ばれ、無意味な「残業」もよくありました。

日本に来た私は3ヶ月だけ他人の会社に勤めましたが、その時は「社員」の称呼に違和感を覚えました。文化大革命を思い出すからでした。

「社員を大切にする」という経営訓も好きではありませんでした。「人を大切にする」や「仲間を大切にする」などの言い方は納得しますが、「社員」という組織が先にあって人が後についてくる対象を大切にすることは空論に過ぎないと思いました。

殆どの「社員」は本音では創業したばかりのベンチャーや零細企業に勤めたくないのです。それでも来る「社員」が居る理由はただ一つ。ほかにもっとましなところに行けないからです。大企業に行けるのに敢えてベンチャーや中小企業を選ぶ人はもはや「社員」ではなく創業者です。

ソフトブレーンも例外に漏れず初期の社員は他の企業に行けない人達ばかりでした。新規事業を立ち上げるために本社を東京に移転する際、その他の企業に行けなかった社員の一人がどうしても北海道に残りたいために、皆に「宋社長は小手先のことしか考えていない。皆で本社移転を反対しよう」と怪文書を流しました。

他に行けないからといって採用した会社に感謝するわけではありません。「仕方が無いからこんな会社に入ったんだ」と不満に考える社員も多いのです。愛社精神もなければ経営者への敬意もない訳です。

ソフトブレーンは十数年の歴史の中でも何回かの危機がありました。逃げ出さずに会社を支えた人達は他に行けない「社員」ではなく、もっと良いところに行ける人ばかりでした。この人達を単純に「社員」と呼びたくないのが私の心情です。普段から良いこと言い、良い顔をする「社員」達はむしろいち早く逃げ出しています。

逃げ出すだけならまたいいですが、自分が希望する通りのタイミングと条件で出て行けなければ怪文書を流したり、在職中の元仲間に悪さしたりする「社員」は必ず出てくるのです。これはもう創業当時から変わらない現象です。

今北京で現地法人の社長を務めている七田真之さんはソフトブレーンの創業メンバーです。世界でも著名な大手電機メーカーを断ってまだ数人しか居ないソフトブレーンに就職したのです。

その後、数年間にわたって私が会長で七田さんが社長をやってくれました。彼は入社したばかりの社員に脅迫されたり、給料に不満な社員に「あなたはただの宋さんの犬だ」と罵倒されたりしていました。

その彼が今、北京の現地法人を経営し、私と同様に文化と言語の違いを乗り越えて中国人「社員」を使うのです。それこそどんな「社員」もいるものです。そのタフさはたぶん創業当時の日本人「社員」達によって鍛えられたと思います。

「社員」には会社を救う将来の経営者も居れば、会社を裏切る卑怯者もいるのです。家族のように大切にしたい「社員」も居れば、二度と顔を見たくない社員も居るのです。嗚呼、「社員」。中国ではもう死語になりましたが・・・

P.S.
ちょっとした釈明

この手の議論は読者の誤解と不愉快を招く可能性があるので途中からやめようかと思いました。しかし、納得の高い話ばかり書くのはこのメルマガの主義ではないので最後まで書きました。

ある著名な経営者は私に言いました。「我が社には4種類の社員がいる。『人材』、『人財』、『人在』と『人罪』だ」と。これは多くの経営者の本音であり、真実でもあると思います。

「社員」というだけで恰も全員が同じような有難い存在のような言い方は建前に過ぎません。それは社員全員が経営者を有難く思うことがないのと同じです。今回の不況で「会社の一番の財産は社員だ」と言ってきた経営者もリストラに踏み込んだのではありませんか。

まあ、会社と社員はもっと対等で大人な関係にならないと経済全体は強くなりませんね。

「大きな」話の虚無

何だろう、この違和感。講演の後に受ける質問ですが、ビジネスのテーマなのに天下国家の「大きな」質問が多いのです。「中国がどうなるか」、「インドがどうなるか」、「格差をどう思うか」と。経済の自立が問われる地方に限って「大きな」質問が多いのです。

先日、ある地方の経営者向けの講演会の質問時間に「格差の大きい中国はどうなるか」と聞かれました。本音では「外国を心配するよりもここ日本の経済を心配してください」と言いたいところですが、さすがにそれはルール違反ですので「わからない」と断った上、私見を述べました。

主催側の依頼で講演後の立食パーティに出席したら今度は「中国は8%の成長がないとやっていけませんから、今回の危機を乗り越えられますか」と聞かれました。自国のマイナス15%を気にせず他国の6%成長を心配するこの余裕はいったいどうやって生まれたのか不思議です。

どんな小さな業界団体の会合に出ても開会式や乾杯の挨拶は決まって国際情勢から始まり国家の現状を通じて会の話に落ち着くのです。型通りの作法といえばそれまでですが、「大きな」話をする癖がこういう雰囲気の中で身に染まるのだろうとつくづく思います。それは中国の文化大革命によく似た風潮です。

天下国家に無関心でいいと思いませんが、「大きな」話に熱を出す人はだいたい自分のことを棚に上げている傾向があります。ソフトブレーンの経営から身を引いた私はよく「まだ若いのだからもっと社会貢献しないとダメですよ」、「日中の架け橋になってくださいよ」など、「大きな」ことを言われます。昔の中国共産党の書記に会った気分になります。この違和感はたまりません。

今の中国共産党でさえ、そんなきれいごとは言わないのです。私は自分の家族、友人、知人、顧客、あるいは同じ地域に住む人々、そして何よりも私は自分のために生きるのです。他人を尊重することも思いやることもそして愛することも全部自分のためであり、無条件な奉仕ではないのです。

世界に関心を持つことはいいことです。国をよくしたいことはいいことです。しかし、そんなことを思って日々の活動をしている人がいるでしょうか。困難に直面した時に結局心の支えになるのは家族の愛や友人の情けやチームの結束ではありませんか。

日本の書店に入ると、カバーに「日本」という文字が踊る本の多いこと。皆が「大きな」話が好きですね。天下国家、憂国憂民なのです。最後に必ず批判で終わります。「国がだらしない」、「政治家がダメ」、「マスコミがおかしい」は定番メニューです。

私はかつて「一日も早く会社に貢献できる人間になります」と豪語する新入社員に言いました。「あなたは会社のことを心配してくれなくてもいいからまず自分の給料を稼げる人間になってください」と。

日本に貢献したいならば日本に頼らない人間になることです。その時、GDP1.5倍の国債は初めて減少に向かいます。世界に貢献したいならば異なる価値観に寛容になることです。その時、世界はより戦争から遠ざかります。

P.S.死ぬ思いがあれば・・・

韓国の元大統領が自殺したと聞いて悲しみましたが、「なぜそんな愚かなことを!」と腹が立ちました。

生きている人間は毎日確実に死に近付いて行きます。どんなに愛している家族とも、どんなに美しい風景とも、いずれ永遠に別れるのです。このメールを読んでいる皆さんもどんなに頑張ってもいずれこの仕事も手放す日がくるのです。

人生は「人が生きる」ことなのです。ただ生きる、それだけでよいのです。小鳥が鳴くのも鹿が跳ねるのも生きる意味を理解したからではありません。

生きること自体は素晴らしいことです。死ぬ思いがあれば闘いながら生きる勇気をもってほしいものです。

宏志班の生徒達に贈った詞の原文

読者の皆様からのご要望が多いため、5月15日のメルマガに掲載した宏志班の生徒達に贈った詞の原文を掲載します。


イ尓感到羞恥的時候,那是命運在磨練イ尓。

イ尓感到孤独的時候,那是命運在期待イ尓。

イ尓感到貧困的時候,那是命運在豊富イ尓。

イ尓感到進歩的時候,那是命運在奨励イ尓。

小同学,請相信,有人永遠和イ尓在一起。


日本語訳
恥ずかしいと感じた時、それは運命があなたを磨いている時。
寂しいと感じた時、それは運命があなたに期待している時。
貧しいと感じた時、それは運命があなたを豊かにしている時。
進歩を感じた時、それは運命があなたを奨励している時。
小さな友よ、信じよう、誰かがあなたとずっと一緒にいることを。


宋 文洲

人は比較に頼る

神が人々を幸せにするために、天界から降りてきました。失明した人は神に「私は、愛する家族の顔も綺麗な夕日も見たことがありません」と訴えました。神が彼に視力を与えると、彼は幸せになりました。

「私は凍土の上でも炎天下でも労働を厭いませんが、働くための土地が洪水で流されました」と訴えた農民に神は農地を与えました。農民は幸せになりました。

貧乏な青年がやって来て言いました。「神様、私にはお金がなく家族も持てません」と。神は彼にお金と美しい妻、可愛い子供を与えましたが、青年は暗い顔で「神様、私には才能もありません」とさらに訴えました。すると神は彼に才能も与えました。

数日後、青年はまたやってきてとうとう言いました。「神様、私には幸せがありません。ください」と。

神は少々躊躇された後、「(幸せを)与えよう」と言って、これまでに与えたすべてのものを取り消しました。その結果、青年は一人ぼっちのホームレスになり、飢餓と悲しみと孤独に暮れる日々を送ることになりました。

2年後、神は青年に家族だけを返しました。すると青年は「私は幸せだ!」と号泣しながら妻と子供を抱きしめました。・・・・・・

以上の言い伝えは小さい頃に大人達から聞いた話ですが、年を重ねるたびにこれを思い出し、その都度異なる感想を見出してきました。

人は不幸に思うことがあって当然です。しかし、人が不幸に思うことは100%自分のせいです。年収600万円の人は年収1000万円の人を羨む。1000万円になると3000万円の人を羨む。3000万円になると1億円の人を羨む。年収1億円になると資産10億円の人を羨む。資産10億円になると100億円、100億円になっても1兆円の人もいることに気付きます。

「俺はそんな貪欲じゃないから大丈夫」と思う方が多いかもしれませんが、お金の話はあくまでも例えです。出世、持ち物、住まい、名誉・・・人が欲しがるものはお金だけではありません。欲しいだけならまたいいですが、いくら欲しいか自分も分からないから困ってしまいます。だから人は人と比較するのです。年収600万円の人が周辺を見回しても他の人が皆500万円以下であれば、きっと幸せになれるのです。

人の最大な弱みは比較に頼ることです。比較しないと価値が分かりません。スーパーの売り場でたくさん人が溜まっているところについつい人が寄ってしまい、欲しくもないものを買ってしまいます。皆に「良い」と言われることに自分だけが「悪い」となかなか言えません。これらの群れる行為は全部比較に頼る結果です。

人の上に行きたいことは比較の結果です。人と同じようになりたいことも比較の結果です。どちらも自分が決めていないので切りがありません。いつまでも心の平和が得られないのです。

現代社会はなぜこれだけ物質的に豊かなのに人々は少しも幸せになれないか。答えはこの比較心理です。人類は比較を使って進歩してきましたが、その行き過ぎて無駄な働きを増やし、地球と自分の心に過剰な負荷をかけているのです。

不況は素晴らしい先生です。「人が買うから買うのではない。人が売るから売るのではない。3年前の状況が本当は良かった。売上げは毎年伸びる決まりがない」。こんことを教えてくれるのは不況先生だけです。

私も例外ではありませんが、ついつい比較してしまいます。これを克服しないと真の幸福がないと思う今日この頃です。

P.S.

前回の論長論短で「宏志班」のことにふれましたが、このメルマガの読者から以下のようなご返信をいただきました。

コクヨインターナショナル(株)中国代表の大田と申します。
いつもメールマガジンを配信頂き、有難うございます。
宋社長の言葉は深く重みがあり、いつも心を揺さぶられます。
さて弊社ではこの中国に少しでもお返しをしようと、毎年中国の恵まれない学生さんたちに弊社のノートを寄付しております。寄付のコンセプトは、「子供たちに喜んでもらい、子供たちの笑顔を見ることを目的とする。結果として企業イメージアップなどビジネスにつながることもあるだろうし、それは喜んで受け入れるがそれを目的とはしない。」としており、これまで3年間で約30万冊のノートをお配りしてきました。下記のコラムにある「宏志班」の学生さんたちがもしノートを必要とされているのであればソフトブレーンさんから寄付されてはいかがでしょうか?ノートは弊社より貴社にご提供致しますので宜しければご検討くださいませ。

これに対して私は次のようなご返事をしました。

宋 文洲です。
ご愛読いただき心より感謝を申し上げます。
メールへのご返事が遅れて申し訳ございません。
ノートの件はかしこまりました。
御社のご好意ですので御社が直に寄贈されるとベストだと思います。
私も「宏志班」と直接の繋がりはありませんが、
中国の法人や駐日中国大使館を通じて調べてみます。
・・・・・・

今朝、北京現地のスタッフから「寄贈する際に学生達を励ますメッセージがほしい」と言われたので急いで以下の詞を作ってみました。実際に使われるかどうかはわかりませんが、ご参考にご覧ください。

※中国語を日本語訳にしたものです

恥ずかしいと感じた時、それは運命があなたを磨いている時。
寂しいと感じた時、それは運命があなたに期待している時。
貧しいと感じた時、それは運命があなたを豊かにしている時。
進歩を感じた時、それは運命があなたを奨励している時。
小さな友よ、信じよう、誰かがあなたとずっと一緒にいることを。

(終わり)

自信はどこから来るか

「中国人として自分に自信が持てますか」。大学での講演で私は学生達に聞いた。皆が「持てます!」と答えたので私が聞いた。「何があなたにその自信を持たせたのですか」と。「高度な経済成長」と答える人もいれば、「万里の長城・長江」、「5000年の文明・漢字」、「オリンピック・宇宙船」などを挙げる人もいた。

「もしある朝、あなたが目覚めるとルワンダ人に変わっていたとする。飢餓と内乱に直面するあなたは、その時も自分に自信が持てますか」。私がさらに問いかけると、会場は深い静寂に陥った。たぶん、学生達は一度もこのような角度から「自信」について考えてみたことがないだろう。

自身以外のことから誇りや自信を持とうとする人は世界のこと、民族のこと、そして個人のことをとうてい理解することができない。

私がエール大学に在席していた時、フィリピンの元エネルギー大臣であるクラスメイトがいた。クラスで行なわれた自己紹介の時間に、彼はあえて自分の名前の構成がどのように植民者から影響を受けたかを説明した。

彼は平和な口調でフィリピンの歴史を振り返り、顔は卑屈ではなく自信に満ちていた。それは誰も自分以外のことを理由に自分を見下ろすことができないという自信であった。自分の国家、自分の故郷、自分の貧困を理由に自分を軽蔑してはならないという自信であった。

2007年の春節、私は北京のある「宏志班」の新年パーティに参加した(中国では経済的理由で進学できない子供達のために設置した特別なクラスを「宏志班」という―宋による注釈)。経済的な不遇が子供達から笑顔と明るさを奪うことが無く、むしろ彼らに忍耐力、勤勉さ、素直さ、そして物の大切さを教えた。教室の一角に売りに出そうとする空き缶が積みあがっていた。それは飲料を飲むことのない彼らが他のクラスや学校から正々堂々拾ってきたものであった。

彼らは経済上の弱者であるが、品格上と能力上の強者である。彼らには最近の子供達の軽さと甘さが見当たらなく、私が世界各地で取材してきた成功者達の習慣が見え隠れしている。彼らは書道を習い、楽器を練習し、自分達の行動で自信を示しているのである。

人間は皆、幸福になる権利がある。条件が異なるという事実に淡々と直面するとよい。勇敢に現実を直視し自分の目標に向かって絶えず努力する人こそ強者であり成功者であり幸せ者である。人格においては世界中の全ての人々は平等である―本当の自信は心に深く根ざしたこのような信念に由来するものである。

他国の人々とのお付き合いにおいては、わざとらしい自信と自尊の表現は殆ど逆効果である。人の自信、自尊は個人の独立した人格から自然に滲み出すものである。

――――――――――――

この文章は中国で2月に出版したベストセラーから引用したものです。「三十而励―メインキャスターが中国と世界を思う」という本です。著者 成鋼氏は経済番組のメインキャスターです。30代の彼が自分を励むことをこめて「三十而立」にちなんで「三十而励」と書名をつけたという。

私の感覚と合うのでメルマガ読者の皆さんに紹介しましたが、良かったらそのうちまたかいつまんでご紹介します。

批判を恐れない精神こそ批判精神

先日「新報道2001」で民主党の「経済政策」を批判しました。ブログのコメント欄に熱心な民主党の支持者から文章にできない罵声を浴びせられました。基本的にどんなコメントも公開することにしていますが、ここまで言葉が汚くなると私のためではなく、読者のために公開しないほうがいいと思って「割愛」しました。(要は「帰れ」とか、「中国人はバカ」などをエスカレートしたパターン)

ちゃんとした言葉でご意見を書いた方もいらっしゃいますのでご紹介します。
「宋さんは、報道2001を見る限り、自民党に偏った人間だと思います。自民党に媚びることで利益を得てきたんでしょう。だからあなたのコメントや評論なんかも非常につまらない。自民党のパーティーに出席するくらいだから自民党とべたべたなんでしょ。」

これを読んだ私は不愉快な気持ちは全くありません。なぜならばそう思われてもおかしくない事実がそこにあるからです。しかし、この方はたぶん前回「新報道2001」に出たときの私のコメントを聞いていないと思います。あの時、小沢さんの秘書逮捕について以下の趣旨のコメントを言いました。

「国策捜査だと思わないが、そもそも国策捜査の定義が曖昧。検察の人々は自分の思想背景がないのか。ただ2、3千万円の疑惑で国の進路と歴史を変える重みを知った上での行動だろう」

このコメントについてネットでは「日本は昔から潔白な国です。中国の基準で言われても困ります」とのご批判をいただきました。たぶんこちらは自民党支持者の方でしょう。

私は今、田原総一朗さんと対談の本を作っている最中です。この前、対談が一段落したところに彼が心配そうにある葉書をスタッフと私に見せてくれました。それは彼の旧知が激しい言葉で彼の立場を批判する葉書でした。要は田原さんの立場が自分と異なるだけのことですが、絶縁状のような葉書を使う必要があるのかと思いました。しかし、当の田原さんは相当弱った様子で自分のあるべき姿勢について悩んでいました。

はっきり主張することは必ず批判に遭うことです。人はそれぞれの利益基盤と価値観と立場が異なるからです。小心が増殖する社会には真のマスコミを培養する土壌が薄くなります。

他人を批判する精神だけが批判精神ではありません。批判を恐れない、批判を寛容に受け入れる精神こそ批判精神だと思います。

P.S.
(1)韓国に遅れたくない
先週北京にしばらく居ました。ちょうど北朝鮮のミサイル騒ぎの最中でした。市民レベルでは世襲の古い社会が中国全土をカバーするミサイルを持つことに対して皆が反感を持っていました。

北朝鮮に詳しい友人から、「韓国が今年後半に人工衛星を打ち上げる計画が発表されている。韓国に遅れたくない金正日が急遽ミサイルを衛星に言い換えた」、「長距離ミサイルの試射に衛星の虚勢と国際批判対策を兼ねての一石三鳥」と聞きました。

(2)春は終わってしまう
あの出井さんが面白いことを始めました。ファンドを立ち上げて日本の技術と経営ノウハウをアジアに移転し、それに伴う日本とアジアの企業に投資するファンドです。この「不況」の中、出井さんらしい戦略の目利きです。
http://www.qxl.jp/File/Daiwa_Quantum_Capital_Limited_Release_jp.pdf

私が今年1月最初の「新報道2001」で視聴者の方々に「保証」しました。「夏を待てば春が終わってしまう。今年後半は必ず景気が良くなる。私は保証します」と。皆さんも何かを始めてください。

マスコミは国民のレベルを代表する

前回の私のメルマガに多くの方々から厳しいご意見をいただきました。1000文字で誤解を招かない文章を書くのは無理ですし、誤解を承知のうえ、論点を絞ったのも事実です。

先日、国会議員のパーティーに参加した後、ホテルを出ようとしたら、玄関で自民党の細田さんが若い人達に囲まれて何かを話していました。政治家を囲んで話を聞く若者達は偉いと思って近寄ると、「あっ、宋さん!」と先に細田さんに呼び止められました。

「野次馬達に捉まったんですか」と私が冗談を言いましたら、「いいえ、こちらは各社の政治記者達ですよ」と細田さん。

その瞬間、私はショックを受けました。まずその方々の若さでした。どうみても彼らの平均年齢は20代です。若者の起業精神を期待する私ですが、政治家を相手にする記者があんな若さで良いとは死んでも思えないのです。

次に彼らの質問の内容です。はっきりいって幼稚そのものです。「言えばいいじゃないですか」、「なぜそんなことをしないですか」など、実社会で少しでも苦労すればそんな質問してもしようがないとすぐ分かるはずです。

彼らはよい大学を出ているかもしれません。しかし、彼らは自分を持っていない上、世間や世界の試練を受けていないだけではなく、普通のサラリーマンの苦労さえしていないのです。そんな方々が政治家の担当記者で、新聞の紙面とテレビの画面を作っていると思うと自然とマスコミのレベルを察知できるのです。

全ての新聞と雑誌とテレビをよく観察してください。田原さん、関口さんのような独立した個人でマスコミに出ている人は殆どいなくなりました。全てはサラリーマンに替わりました。そのため、社説を除けば殆どの記事は作者の名前がついていないのです。そんな顔のない記事を読むほうが悪いと私は思います。

サラリーマンとして最も保護される立場で、最も安全な場所で、最も苦労の少ない業種に居る人達があれこれを流行り事のように扱うのです。そんな顔も思想も背景も知らせてくれないサラリーマン達の文字が大新聞、大テレビの名の下で売られているのですから、買ったほうに責任があると思いませんか。私が彼らを批判するのは簡単です。しかし、それは彼らを批判しながら彼らの記事や画面を見る人々、彼らの収入を支える人々と同じではないでしょうか。

経営コンサルタントをやってきた私はよく社員達に「うちの経営者をかえてください」と頼まれます。その都度私は怒ります。「それなら君が会社を辞めればいいのでは。そのほうが早いよ」と。はっきりいって私は口ばかりで行動を起こさない人々にイライラします。

話を戻しますが、なぜ日本テレビのバンキシャが岐阜県役所の不正を誤報したかというと、それは日本のマスコミに「役人は悪」という流行があるからです。なぜそんな流行ができたかというと、日本の国民がそう思っているからです。

役人を叩けば視聴率が上がるので記者やマスコミの下請けがその主観に沿ってあれこれ探し出すのです。マスコミは多くの視聴者に期待される結論に合う事実を選んできたのです。事実を使った間違った結論はその影響力からみてミスや無能よりずっと重大だと思いませんか。(今回のバンキシャ事件はヤラセではないので)。

言っておきますが、これは近年日本のマスコミの特徴です。たまたま警察の飲酒運転がニュースになって視聴率が上がると、必ずしばらくあちらこちら警察の飲酒運転事件が発生するのです。ある自動車メーカーに品質問題が起きるとしばらくそのメーカーの故障だけが報道されるのです。

「報道は事実でなければならない」。それは当たり前のことです。さすがに口の悪い宋文洲でもそんなことを否定するはずがありません。しかし、問題の本質はマスコミのレベルとそれを支えている国民のレベルだと思います。

サラリーマンに徹底しているマスコミは独自な視点を持てず、大多数の民衆の望む方向にカメラとペンを集中させるのが良くないというならば、大手にしがみ付き、チャレンジと創業精神を失い、マスコミに同じ結論を求める国民はどうなんでしょうか。

宋 文洲はそんな空気が嫌なんです。世直しのつもりはありませんが、せめて自分のメルマガの読者に異なる刺激に触れていただきたいと思います。結論ではなく、刺激です。

今週も「バンキシャ!」に出る

「テレビ取材にウソをついたことで逮捕」。このニュースをみた時、私はショックを受けました。「真相報道バンキシャ」のコメンテーターとして自分も本当のことを言わなければ逮捕されるかもしれないからです。

「テレビカメラの前でウソをつくと起訴できる」。日本にはそんな法律はないはずです。確かにわずかな謝礼のためにウソをつくなんて人間としてモラルが低すぎます。しかし、インタビューへの「答え」は「証言」ではありません。報道も裁判ではないのです。北朝鮮に関するインタビューは全部裏が取れていると思いますか?誰も気にしないでしょう。

インターネットや噂話の中でウソは塩と水のように日常的になっている今、「ウソをいったら逮捕する」ならば、日本中に刑務所を新設しないと間に合いません。もし「テレビだから、役所だから」という理由で逮捕されたならば、日本の法律の平等性がウソになります。

この理不尽の裏に「テレビは正しくないといけない」というウソも隠れているのです。テレビ制作側がウソをついてはいけませんが、普通の人々が商売としてやっている仕事だから「やらせ」でなければ、その先がウソかどうかを確かめる能力も義務もないと思うのです。

そもそもわざとウソの情報を流して取材相手の反応から真実を探るようなマスコミのやり方もよく知られているやり方です。「報道は所詮そういうものである」ことに慣れることが重要なのです。「テレビも言っていた」と、恰もテレビが本当のことをいっているような考え、あるいは本当のことを言わないといけない考えこそ、幼稚な考えです。

視聴者やスポンサーの主観に合う事実だけを集めるような報道も当然です。商売だからです。それでも国家の主観である統制や検閲よりずっとましです。真実を知りたければ、視聴者自身が多様化するしかありません。これによって報道の多様化が進み、報道の事実と報道の評論の矛盾が曝け出されるのです。そうすれば嫌でも視聴者が自分の頭で考えるようになり真実に近付くのです。

テレビに正しさを求めること自体、商店に交番を頼むようなものです。「大がかりな点検を余儀なくさせて通常業務を妨害した」という岐阜県の主張もテレビ局に神経を使いすぎる証拠です。もし普段から定期調査をやっているならばなぜ慌てて点検する必要があったでしょうか。

今週も「真相報道バンキシャ」のコメンテーターを勤めます。事件の後でいつもより突然の要請だからたぶん、予定していた出演者が怖くなって辞退したのでしょう。あれこれを怖がって最後に皆で実態不明な空気を読む、検察も政府も自治体も個人も。これが今の日本ですね。

P.S.
「彼女」が居る日本

昨日の出来事です。

考え事しながら歩いていると、方向を誤って駅への行き方が分からなくなりました。困ったその時に、若い女性が自転車で向こうから近付いてきました。
「すみません。大宮駅にどうやって行くのですか」
と勇気を出して聞くと、彼女が自転車を降りて
「まっすぐ行って2つ目の信号を右折すれば駅です」
と指しながら丁寧に教えてくれました。

2つ目の信号に近付くと自転車でとっくに遠く行ったはずの彼女が戻ってきました。「すみません。さっき間違えたことを言いました。2番目の信号ではなく、3番目の信号を右折です」
と、なんと彼女が言い直しに来ました。

私は涙が出そうになって
「わざわざ本当にありがとうございます」
と言ったのが精一杯でした。
電話番号でも聞いて後日何かを送りたい気持ちでしたが、オヤジが道端で若い女性の電話を聞くと誤解されるのではと迷っているうちに、彼女の後姿が見えなくなりました。

彼女は美人でした。今朝も私の感謝を知らずにいつものように目覚めたでしょう。「視聴者の幼稚」と厳しい批評を書きながらもこの国に対する明るい見通しを疑いません。だって「彼女」が居る日本だもの。

(終わり)

年功リーダーという差別

企業のリーダーには3つのタイプがあります。真のリーダー、親分リーダー、年功リーダーです。

組織の目的よりも部下を持つことに生き甲斐を感じ、プライベートに介入したり、飲み食いを共にしたりする親分リーダーは真のリーダーではありませんが、まだましなほうです。

日系企業には特別に存在する深刻なリーダー問題があります。それは年功リーダーの多さです。本来、勤続年数が経ったことを理由に部課長になることはリーダー論においては論外ですが、今日はその論外を論じます。

日本社会は一見平等を強調する社会ですが、実は世界のほかの社会と本質的に何にも異なりません。ただその差の付け方が分かりにくいだけです。士=正社員、農=契約社員、工=派遣社員、商=アルバイトのような差別制度が歴然としているのに、日本は終身雇用と言い張る人が未だに多い。人々の不満と不安は、派遣切りではなく雇用差別なのに誰もその本質に触れようとしません。

年功リーダーも差別の結果です。努力と関係のない年齢をもって部下に差をつけようとしているだけです。本当に「年功」があれば差別といいませんが、そもそも年功リーダーの多くは「年」があっても「功」がないのです。年功の言葉は彼らが考え出した自己粉飾の言葉です。年功リーダーは「年が効く」「年効」リーダーなのです。

絶対に管理職に向いていないのに部課長になった日に赤飯を炊くのはなぜでしょうか。外国人には完全に滑稽に見えますが、本人達は明らかに「昇進」だと考え、やっと他人に差をつけることができたと喜んでいるからです。

年功リーダーは真のリーダーではないことは一目瞭然です。そんな偽リーダーが増えると組織的なモラル崩壊が起きるのです。「リーダーでもそんな程度なんだから、俺達は頑張ってもしょうがない」とか、「部長が優柔不断で責任を取らないから俺達が新しいことをやっても失敗の責任を押し付けられるだけ」とか、年功リーダーが存在するだけで、組織のモラルが低下していくのです。

年上を大切にするという儒教的美徳は私も賛成です。しかし、これは道徳論であり、組織論と何の関係もない話です。電車の席をお年寄りに譲る、老人ホームに寄付する、自分の親を懸命に介護する・・・これは我々一人ひとりの個人が心に決めたことであり、組織と関係なく行動でその心を示せばいいのです。

組織のリーダーの最大な美徳は真のリーダーになることです。責任とリスクと公正を背負って組織を勝てる組織にすることです。それができない場合、辞めるのもリーダーの美徳です。辞めることで最後の最低限の美徳を果たそうとするのです。

最近、管理職になりたくない人が増えたのはたぶん、多くの格好悪い年功リーダーが居るからです。見苦しい彼らをみて若者達は絶望するに違いありません。若者の無気力を批判する前に無気力なリーダー達は自分の資格にも同様な視線を送るべきです。

「差別」という言葉をきつく感じた方も多いかと思いますが、お許しください。ちなみに私は世襲も差別だと思います。一番酷い差別は社会に受け入れられる公然な差別であり、差別と気付かない差別です。差別は確実に社会の活力を蝕むのです。

弱った会社の前兆(下)

前回からの続きです。

D文章が多い
内部向けの文章がやたらと多い組織はよくない組織です。議事録、会議録、報告書、日報、メール・・・文章の長い人ほど、多い人ほど仕事ができません。ダメな上司は文章を読み、ダメな部下は文章を書き、作文で時間を消耗して仕事ごっこをやります。だいたい文章が下手な人ほど文章を書きたがるので読まれないのも当然です。

E喧嘩をしない
喧嘩をしないというよりも遠慮がちといったほうがもっと適切かもしれません。会議や打ち合わせの際、遠慮なく上司、同僚、部下に対して言うべきことを言える組織は活力がある組織です。意見といえばよく思い付くのは部下が上司に意見をいうことですが、実は上司が遠慮なく部下に意見を言えることがもっと大切です。部下の意見を大切することはイコール部下に遠慮することではありません。部下の欠点を叱りながらも意見の大切な部分を見抜くリーダーの純心が必要です。仕事上の意見がぶつかっても個人感情にシコリが残らないのはよい組織です。

F社員が急に増える
利益率が低下しているのに社員がどんどん増える会社は弱まります。顧客ニーズが鈍化しているのに組織を肥大化させることはトップのリスク感覚がない証拠です。やがて社員が顧客利益と関係のない仕事を増やすことになります。その過程で顧客ニーズが減少に転じるケースが多いので会社は一気に赤字体質に変わってしまいます。この不況下でこのような組織は簡単に炙り出されます。

G横文字が増える
不思議に外来語を多用する組織は弱くなります。正確な理由は分かりませんが、たぶん誤魔化しが増えるからだと思います。ちゃんとした日本語があるにもかかわらずわざと英語を使うのは単刀直入に問題の本質に触れたくないからです。その姿勢がまずトップから滲み出し、徐々に組織全体に浸透し、やがて誰もが難しい課題、問題のある事業から目を逸らすことになり、企業の潜在リスクが膨張してしまいます。

H意味不明な部署が増える
部署が多い会社はまず分かりにくいです。それは外部からみて分かりにくいだけではなく内部も分かりにくいのです。過剰な分業は社員の事業への理解と参加意識を薄め、顧客との距離を増大させることになります。なるべく損益計算書(PL)に直結する組織の作り方をしたほうがいいと思います。シンプルになるだけではなく、損益への貢献度も一目瞭然です。意味不明な部署が多いことは利益を生む過程と事業が絞られていない証拠です。

P.S.
砂漠のようなビジネス文章の後に一息していただくために、「夕刊フジ」に寄稿したエッセイをお読みください。朝からお時間のない方はここを読み飛ばしてください。

家は心にある

「家」、「ホーム」。東洋も西洋も大変心響く言葉である。「家に帰ろう」の一言は弱った人々の心をどれほど救い、冷えた魂をどれほど暖めてくれるだろうか。

「家」は建物ではない。「家」は家具と内装ではない。「家」は戸籍の構成ではない。「家」は家族同士の愛であり、心の絆である。だから住むところは狭いところでもいい、借家でもいい、頻繁に変わってもいい。太陽が沈み闇が支配する頃、愛し合う家族が集まる。その場所は「家」となるのである。

「家」を実感するのは妻の「お帰りなさい」であり、夫の「ただいま」であり、子供の「今日は・・・」の報告である。いつもの人と一緒に風呂に入る、いつもの料理を口にする、いつもの人とキスする。「家」はその瞬間に心に入り込んでくる。「家」は心にある。

マイホームのためにローンの返済に励む。一軒家のために会社に必死にしがみづく。家から離れないために2時間もかけて通勤通学する。心が納得すればそれぞれの選択が正しいだろう。しかし、もしそれによって心が疲れきっているならば、心の「家」を探してほしい。

子供が大きくなると何を覚えるだろうか。「家」の広さではない。「家」の豪華さではない、「家」の所有者ではない。子供たちが覚えているのは「家」で何を食べ、何を教えてもらい、何を体験したかだろう。

「家」が作られるが、やがて消える。子供たちが自分の「家」を持ち、元の「家」にたまに戻る。愛する人が天国に行き、「家」にはとうとう最後の一人が残る。往時の絆と愛を思いながら天国での新しい「家」を夢見る。「家」は心にある。
(夕刊フジ2009年2月18日「宋文洲の会社員哲学」より)

弱った会社の前兆(上)

世の中では不況ばかりクローズアップされていますが、台風が来ているのだからお天気に文句をいっても始まりません。会社も個人もこの際自ら強くなるしかありませんし、強くなるチャンスでもあります。

今日は景気と関係なく弱り始めた会社の兆候を述べたいと思います。自分の経験とさまざまな企業のコンサルティングを通じて感じたことですので独断と偏見に満ちているかもしれません。お許しください。

@会議が多くなる
不思議なことに会社が弱くなるとやたらと会議が増えます。部長や役員のスケジュールを覗いてみると会議で大半の時間を占めています。その分、必ず部下を巻き込んでいるので会議室が足りない状況が続きます。末期症状になると企業なのに「○○○委員会」とか「○○○協議会」のような役所的な会議組織までが出来上がります。会っても議論しない、議論しても実行しない、実行しても検証しない、検証しても責任を取らない。会議の多い組織は絶対責任に辿り着かないのです。

A同じやり方が3ヶ月以上続く
朝礼や発表会など、どこの会社にも定期的な行事があります。その定期的な行事が同じやり方で3ヶ月以上続く会社はだいたい弱っています。もともと行事の目的は何らかの経営課題を解決するためにあります。3ヶ月もすればだいたいボトルネックが移動しているはずです。それにも関わらず以前の課題のための形を取り続けることは怠慢の始まりです。

B取締役が営業しない
取締役クラスの偉い人が営業しない会社に良い会社はありません。役員やそれに該当するリーダーが営業にいくことに以下のような重大な意義があります。
・顧客を知る。事業を知る。変化を知る。現場を知る。
・社員がトップの動きをみてモチベーションが上がる。
以上の2点が大事にされていない会社は弱まります。

C美男美女が増える
偏見かもしれませんが、このような傾向を感じてなりません。昔有名なベンチャー投資家が「美人の秘書を持つベンチャー経営者はダメ」という「偏見」を持っていましたが、堀江さんなどの「風雲児」をみて見事にそれは当たりました。たぶん見栄や格好を気にすると組織が甘くなると思います。
(To be continued. 再来週は残りの半分を披露します。)

能率と効率の違い

職人という言葉には総じて良いイメージがあります。「職人肌の人」と言えば、まじめに一つのことに対してコツコツと追求する人のことですから、私もそういう人が好きです。特に最近の中国人には「眼高手低」(望みは高いが、実行力がない)のような人が多いので余計に職人への偏愛が高まります。

しかし、世の中の理屈には絶対的なものが存在しないのです。日本人が好む職人魂が日本の産業をよくしてきたと考える私にはショッキングな話を耳にしました。あのトヨタ式の導入の第一人者である若松義人さんの話です。

先日、久しぶりに若松義人さんとランチしながら雑談しました。なんと彼は「トヨタは職人に頼らない。誰でも作れるようにするのがトヨタの強みだ」と言い切ったのです。

そういえばそうです。トヨタ自動車が世界のトップメーカーになっている現在、その従業員も工場も市場も殆ど日本以外にあります。名実共に日本発のグローバル企業で日本の誇りですが、日本の職人に頼ったら今日はあり得ないのです。

反対に衰退の一途を辿っているGMは職人に頼っているそうです。単一の車を生産する工場が多く、その工場の中で単一の作業に特化した工員も多いそうです。結局良い時はいいのですが、変化が必要な時には対応が遅れてしまいます。

トヨタの工場では同じ生産ラインでも様々な車を生産することができます。また工員はなるべく多数の工程と作業を経験するように経営側が促しています。市場の変化に柔軟に対応できるようになるだけではなく、工員達が常に頭を使い、飽きないようにする工夫でもあるそうです。

「職人」はなぜいけないか。この質問を若松さんにぶつけたたら面白い答えが返ってきました。「職人は能率を求めるが、経営は効率を求める」と。

私のような外国人がもちろん、多くの日本人も「能率」と「効率」の区別ははっきり付かないと思います。若松さんは「能率は職人の能力で部分最適化であるが、効率は経営の能力で全体最適化だ」と言い切りました。

若松さんが紹介してくださった広州トヨタの事例が面白いと思いました。広州トヨタの従業員の平均年齢は23歳です。当然皆、経験の浅い従業員ですが、生産ラインの直行率(完成車の合格率)は98%に達しているそうです。なんと日本の工場でも96%にしかいかないので広州トヨタは世界一の品質に到達していることになります。ちなみに倒産寸前のGMの直行率は60%台です。

トヨタの改善についても知らない人はいませんが、どうもその改善の中身についてはかなり各企業が勝手に解釈しているようです。社員が自由に集まりそれぞれ自分の改善を自慢する会社が多いと思いますが、トヨタの改善は作業の改善ではなく「標準」の改善だそうです。

トヨタ式においてはどんな作業にも必ず標準があり、どんな社員も必ずその標準に沿って仕事をするのです。改善とはその標準への改善であり、標準が変わった以上、誰が作業してもその標準を保証しなければなりません。作業毎、工程毎の標準が保証される仕組みがあるから、最終的な直行率が自然に保証されるのです。

日本語の「標準」はなんとなく「マニュアル」、「不変」というイメージがありますが、若松さんの話を聞くとトヨタの標準とは時間軸において常に変化するものだと気付きます。

「営業、総務、サービス業など生産現場以外の経営においては標準化への理解と取り込みはもっと遅れている。開発、生産と営業が連携して標準化と改善を進めないと企業の競争力がますます落ちる」と若松さんは警告しています。

100通りの幸福

「あなたは一生苦労しますね」。先日、2年ぶりに会う経営者の友人にこう言われました。経営から手を引いて悠々自適の生活を送っていると思われがちな私ですが、「なぜ分かりますか」と驚きを隠せませんでした。

「それは宋さんと出会った時から感じていましたよ。あなたは火中の栗を拾うタイプですから」。かなり年上の方ですので、その分多くの人をみて眼力を養ってきたと思いますが、ここまでずばり言い当てられるとどこか悔しいのです。

この正月中はしばらくこの友人の話が頭から離れませんでした。平和が得られない自分を哀れだと思ってしまいます。その最中に別の友人が訪ねてきて雑談しているとやはり「宋さんはリスクが大好きな人だね」と言われました。

私はますます落ち込んでしまいました。やっぱり私は落ち着きのない人であり、心の平和が得られない人だと思いました。そのせいで家族や回りの友人に不安を与え迷惑をかけていると自己嫌悪に陥りました。

寝正月の代わりに私はいろいろと過去のことを思い出しました。ここで皆さんに言える話と言えない話もありますが、総じて自分は常に変わったこと、火中の栗を拾うようなことをしてきたと痛感しました。

潰れそうな中小企業に敢えて就職した時のことを思い出しました。バブル経済が崩壊した直後の91年に、同級生は皆大手企業に就職したのに、私は聞いたこともない地方の中小企業の内定をもらいました。これを知った私の先生は私に警告しました。「いつ潰れるかは分からんぞ」と。

先生の予言通りその会社は入社直後に潰れました。そこから私の創業物語がスタートしました。事業転換の際も株式上場の際も、人の話を聞かないせいで多くの苦労と損害を受けましたが、なんとか生き延びてきました。

皆さんもご存知だと思いますが、村上氏が日本中の経営者に煙たがられている最中、なぜか私は彼を取締役に迎える「勇気」を持ってしまいました。村上事件が私に経営からの引退を決心させました。この時もまさに火中の栗を拾って自ら苦労を買いました。

個人的なことにおいても、皆さんに言えない苦労が多いのですが、よく考えてみると全部自分が「買い集めた」苦労であり、人様のせいではないことに気付きます。

悲しいことに私はなかなか普通の幸福を味わうことができません。ゴルフの楽しみを知らない、高級車やクラブに興味がない、旅行する優雅さえ覚えられません。何が楽しみかと聞かれると言葉が困ってしまうほど、哀れな生き方です。

しかし、不思議に困った時の私は元気です。難局をなんとか転換させる過程に生きる実感を覚えるのです。不思議に逆境の中から希望の光が見えてくるのです。足を踏み入れたことのない未知の世界に恐怖を覚えながら鳥肌が立つような興奮も覚えます。

希望の光を求めて生きる実感を味わう。これはこれで幸せではないかと、休み明けの直前に急に開き直りました。楽で安定した快適な生活に幸福を感じる人もいれば、その退屈さに耐えられない人もいます。

良し悪しではなく性格と癖の相違です。100人が居れば100通りの幸福があるのです。

100年ぶりの希望

今年最後のメルマガになると思うと急に迷いだしました。何を書こうかと。
何を書くとしてもまずお礼を言わないといけません。こんな思い付きのいい加減メールに皆様はよくも一年間も付き合ってくださいました。

同じことについて立場が異なると見方が異なります。同じ立場であっても着目点が異なると見方が異なります。同じ着目点であってもその日の気分によって見方が異なる場合さえあります。

宋 文洲の見方に触れて「なるほど」、「ちょっと違う」、「何を言っているか」と様々なご意見があるのは百も承知のうえです。だからこそ一年間も付き合っていただいた皆様に本当に敬意を表したいと思います。皆様の寛容と寛大に感謝し、自分も寛容寛大な人間になりたいと切に願っております。

正直言って自分の心情も季節のように天候のように移り変わりやすいのです。毎回メルマガを書く時、どうしても自分の心模様の影響が出てしまうと思います。メールの向こうに自分よりはるかに見識の高い方、自分が大いにお世話になっている方が居ると思うと恐ろしくなる時があります。

街角や応接間や居酒屋でよくメルマガの読者の方々と会います。「メルマガを読んでます」、「先週のテーマは・・・」と聞くとなんともいえない親近感を覚えると同時に緊張感も覚えてしまいます。自分の読者の皆様をがっかりさせてはならないという緊張感です。

さて、長い感謝の言葉をここまでにして今回のテーマに戻りましょう。
実は今書いている文章はもう3回目です。2回も破棄してしまいました。1回目の文章は日本の景気についていろいろな人的不作為を批判しました。2回目の文章はこの一年の世界の変化を振り返りました。どれも満足できず捨ててしまいました。

どなたも分かっておられます。歴史に残る悪い年でした。そんなことをいまさら強調して読者と自分を暗くさせるのは損です。どんな悪いことがあっても新年は必ずやってくるのです。新年は旧年の終わりを告げ、新しい年の幕を開けてくれるのです。

世の中がもっと悪くなるとの予想が多い中、私は今年の新年ほど希望が持てる新年はないと思います。なぜならばそもそも希望とは悪いことが多い時に使う言葉だからです。これほどの悪い年が100年ぶりであれば、新年への希望も100年ぶりのものになるのです。

文化大革命は私の家族にとって不況の何倍も勝る不幸でした。私の母がいつも「この暗いトンネルに出口はない」と喘ぎましたが、父は必ず「出口は必ずある。目の前にないと見えないだけ」と言いました。

そうなのです。我々は出口が見えるまで出口がないと思ってしまいます。失われた10年のようにこれから世界が10年を失うと考える人が居るかもしれません。しかし、そう予想する人は昨年の今、一年先のことも予想できなかったのですから。

私の予想も外れました。私も今後の予想に自信が持てません。しかし、私には確かなものがあります。それは新年への希望です。新年は確実に昨年を過去にしてくれます。新年は確実に予想ができないほど変わります。悪い方向にではなく良い方向に。

皆様に心をこめて、「どうぞよいお年を」

恩師が逝きました

金曜日の夕方、母校でお世話になった技官さんが電話をかけてきました。「木下先生がさっき、亡くなりました・・・」。

木下先生は私を日本に受け入れてくれた恩師です。挨拶程度の日本語しか話せなかった22歳の私に、恩師はよくしてくれました。

寒い6畳一間のアパートで布団に足を突っ込んでテレビを見ていると先生が訪ねて来ました。「寒いか」との問いに素直に「寒いです」と答えました。

すると翌朝、研究室に恩師から内線で部屋に来るように電話がありました。工学部長を務めていた恩師の部屋にいくと上品な秘書がいました。挨拶する前に「街に出るよ」とそのまま札幌駅のラーメン屋に連れて行かれました。

ラーメン屋では恩師の友人が先に来て待っていました。「後藤さん、この留学生の宋君がご馳走になりたいと言っているんだよ」。恩師はいきなりそんな「嘘」をついてまだ日本語のしゃれを知らない私はショックを受けました。

3人でラーメンを啜りながら恩師が言いました。「後藤さん、宋君のアパートはとても寒い。おたくの会社の来客用のマンションは使われていないでしょう。しばらく泊めてくれませんか」。

日本語が下手でも恩師が何を頼んだか分かっていました。「どうぞどうぞ」と答える社長の返事を聞いて私はさらにショックを受けました。前日に自ら部屋を訪ね、翌日にもう私のために問題を解決した恩師の姿勢に感銘と感動を覚えました。思いやりとは言葉ではなく行動であると、この時ほど身に染みたことはありませんでした。

恩師は私にどんな学問を教えてくれたかを一生懸命思い出そうとしても一つも思い出せません。お付き合いが短かったせいもあって恩師との学問のお付き合いは皆無に等しいと思います。

しかし、その短い付き合いがどれほど20代の私に影響を与えたか、恩師には分からないと思います。

社会主義国からきた硬い留学生の私は、先生に厳しく学問をチェックされると思っていたのに初回の面接の第一声は「彼女はいるか」でした。「日本文化の勉強だ」と称してよく料亭、自宅、そして彼の友人の家に連れていってくれました。日本酒が大好きな恩師ですが、酔うとシモネタを連発し、先生の「尊厳」などをまったく気にしませんでした。

人間が好きでシモネタも好きな私ですが、恩師木下重教先生からの影響が大きいと思います。新入社員の面接時についつい彼女はいるかと聞いてしまいます。気心が知れた男性社員といるとついついシモネタをはじめてしまう自分がいます。この頃はセクハラが怖いので自制しておりますが。

今年6月、北大工学部の同窓会に講演を頼まれて久しぶりに母校を訪ねました。恩師の木下先生が末期癌と戦っている最中の体を引きずりながら奥さんと共に工学部に来てくださいました。抗がん剤の管が見えた時、私は目頭が熱くなりました。

恩師木下先生も涙を流しました。初めて見た先生の涙です。その時、彼も私もこれが最後の面会と悟りました。

P.S.

ご存知の方も居られると思いますが、私は年初から「週刊エコノミスト」の表紙をめくったところにコラムを書いてきました。今回(12/16新年特大号)では麻生総理の漢字問題を取り上げました。

「ただの漢字の間違いじゃないか」と思う方もいるかもしれませんが、私はこれが日本政治家の資質問題の氷山一角だ思います。世襲という病気が日本の政治をどれほど侵食しているか、皆さんは気付かれませんか。

―――――――――――――――――――――――――――――――

「詳細」と「頻繁」が読めない日本人はどのくらいいるだろうか。私はたぶんあまりいないと思う。

しかし、一国の総理大臣が読めないというので信じられないことだ。「未曾有」を「みぞうゆう」と読んでしまうのは、我々外国人には同情されるミスであるが、「詳細」と「頻繁」となれば外国人も滅多に間違わないだろう。

日本に留学したり、就職する外国人も、資料、論文、新聞は読まないと話にならない。「詳細」はどこの文章にも「頻繁」に出てくるし、「頻繁」は「詳細」に説明しなくても「繁雑」との違いは分かる。

そんな必要最低限な漢字が読めないという事実に、恐ろしい結論が待っている。日本の総理大臣が新聞と本を読んでいないという結論である。彼が漫画を好きなのは普通の文章が読めないからだろう。しかも、それが今に始まったことではなく、彼が日本人として生まれて以来、「詳細」や「頻繁」程度の漢字が使われる文章をほとんど読んでいないということだ。

歴史観についてよく語る麻生さんだが、どうやって日本と世界の歴史を知っただろうか。漫画で読んだ程度だろうか。それとも人の口から聞いたのだろうか。

ベストセラーとなった『国家の品格』を皮切りに、あの品格この品格の本が書店に溢れ返る。明らかに品格のない人までも品格を大いに語る。それなら「総理の品格」の議論もあってよい。ただし、紙面で議論するなら本ではなく漫画にしないと現役の総理が読めない。

週刊エコノミスト12月16日新年特大号より

正義と狭窄は紙一重

「昔は近所に怖いおじさんが居て悪いことをする子供達に注意したものだ」。このような昔を懐かしむ言葉はよく年配の方々から聞きますが、実は今も子供達に怒鳴るおじさんがいます。しかし、その中身はかなり違います。

無邪気な幼稚園児が商店会の自販機を小さな手でちょっとたたくと、園長を呼びつけて「教育はどうなっているか」とキレる商店主がいます。手を繋ぐ園児達がオフィス街を通るとき、ちょっと煩いことをするとすぐ怒鳴ってくるおじさんがいます。人がまばらの公園でちょっと犬の紐を緩めると「ルール違反だ!」と言ってくるおじさんがいます。

最近の日本は正義が多すぎます。最近、「官僚が悪い」という正義が流行っています。そのため数十年前に犬が処分されたことを思い出して元事務次官を殺してしまう「正義感の強い人」まで現れました。

彼のあの正気に溢れた堂々とした表情をみて、悲しいというよりも虚しい気持ちにならざるを得ません。この国は最近、全部他人のせいにすることが流行り、そのための言い訳も立派です。まさに「替天行道」、正義の代行です。

この国の官僚はつい最近まで世界で最も優秀だと言われました。戦後の高度成長は政治家ではなく、官僚達の功労という見解はごく一般的でした。いつの時点からか分かりませんが、まるで「官僚が即ち悪」のような世論が出来上がり、小泉容疑者に正義を代行させる捌け口を提供してしまいました。

官僚になれる人は日本の最も優秀な人達の一部です。官僚になる人は決してお金などの私利私欲ではなく、国家や社会への義務感を持つ人がほとんどです。その彼らを悪というならば、日本の誰が善でしょうか。まさに自分だけが善で自分以外の人が全員悪だと言わないでしょうね。

業績が悪くなると中間管理職が悪いという経営者がいます。私が知っている限り、そのような経営者にはすばらしい経営者がいません。たしかに中間管理職は保守的になるケースが多いのですが、そうさせたのも社長であり、変えられる立場にいながら変えないのも社長です。

日本の政治家は自分を売り込むために「官僚が悪い」と言いふらす人がいますが、私にしてみればそれは無能な経営者と何にも変わりません。官僚を使う立場の政治家が自分の失敗を認めず、部下のはずの官僚を批判し、世間の批判の的にするのはとても卑怯です。

皆が私利私欲のために正義を振りかざす世の中は悲しいものです。サブプライムローンや金融派生商品など、人間の私利私欲が暴走した結果、今の大不況が降りかかってきましたが、悪いことを全部他人のせいにすることもこれに勝ることがあっても劣ることがないほどの、私利私欲なのです。

一人ひとりが内側に潜むその私利私欲を認めてこそ、抑制が始まるのですが、皆が自分こそ正義を代表しているというから私利私欲が蔓延して収まりません。私も偉そうにいう資格はありませんが、せめて自分の私利私欲を認めて人のせいにしないように努力したいものです。

私にも強い正義感があります。しかし、それが怖いと思う時があります。なぜならば、正義は狭窄と紙一重だからです。

世界に終わりが無い

先日の香港の大衆紙の一面に「アメリカ、二年後に破産」という大きな記事がありましたが、その時、香港がどうなるか書いてありませんでした。中国の温家宝総理がアジア欧州首脳会議の場で「百年に一度の危機」と言いましたが、それはグリースパン氏の言葉の受け売りであることは言いませんでした。

日本。経営者に会うたびに景気が悪いと聞きます。銀座の店のオーナーは口を揃えて戦後最悪と言います。評論家達は全治五年と言います。

私も今の経済は厳しいと思います。私もアメリカは弱体化したと思います。私もしばらく明るいニュースがないと覚悟しています。

しかし、私は昨夜も好きな友人と心行くまで語りました。今朝もジョギングの途中で瑞々しい花と出会いました。この週末も子供たちと大好きなハイキングに行きます。

ボーナスが減りますが、物価も安くなります。高級品が売れなくなりますが、ドンキホーテやニトリが繁盛しています。資産家の資産が激減するが、世の中の格差がこれで縮小します。

不況でないと解決できない問題があります。売上げが激減した時、初めて営業改革に着手する経営者が多くいます。倒産の危機に瀕して初めてリストラ(事業再編)のコンセンサスが得られる企業はたくさんあります。首切りが増えて初めて自分の会社に愛着を感じるサラリーマンも少なくないでしょう。

不況は誰かのせいではありません。皆のせいです。危機は誰かを狙ったものではありません。皆が被害者です。後ろ向きになるのは後ろに魅力があるからではありません。前にいく勇気がないからです。

中国語には「皆は五両なら私も半斤」という諺があります。「皆で一緒に減るなら自分の被害も実際にない」という意味です。皆が被害者ですから、相対的にいえば被害者はいません。

不況と危機の時こそ明るくいたいものです。皆が内向きなる時こそ外に向きたいものです。良い時も悪い時も我々が生きているのは「現在」しかないのです。終わったことを変えられる世の中は面白くないはずです。常に今に新たなスタートを切り、行動を起こす人が将来を制します。

希望がもし将来への望みであれば、今ほど希望が持てる時はありません。なぜならば「世界に終わりが無い」からです。

精神論と一般論を語るトップ

先週の「新報道2001」では、甘利さんがスタジオに来られて医療問題や公務員のモラル問題についてコメントされました。

地方公務員のモラル問題に対してどう解決すればいいか、とキャスターの黒岩さんが質問すると、甘利さんは「全員が国民のためという思いが一番重要」などの立派な見解を長々話しましたが、なぜか私はイライラしました。「これで変わる」と感じる具体論が何一つないからです。

耐え切れなくなった私は「一般論は誰でも言えるので変えるための仕組みと具体論がほしい」と釘を刺しましたが、彼はそれに応じてくれませんでした(時間も無かったと思います)。

経営コンサルティングを通じて経営者をたくさんみてきましたが、よくない組織のトップはだいたい精神論と一般論が多いのです。言葉の聞こえは良いのですが、いつも同じ話を繰り返しているので部下も聞き飽きています。結局何回話しても何も話していないと同じなので効果無しです。

全員とはいいませんが、多くの日本の政治家は話す時に緊張感がありません。ゆったりと持論と宣伝を展開し、他人の質問についてはのらりくらりとかわします。よく観察していると彼らは大臣のポストに興味があって、その省庁の具体論に興味がないことが分かります。

妊婦が8つの病院に受入れを断られ死亡した事件には医師不足だけではなく、受付システムの情報化と救急業務の標準化といった経営問題があります。しかし、なぜか世論は全部医師不足に集中し、お金と時間をかけずにすぐ改善できることに議論を向けません。

どこも医師不足の大合唱ですから、どこも解決策を出しません。番組に生中継で出演した大村副大臣がとうとう「ここで国民の皆さんに費用のご負担についてご理解いただきたい」と解決策を出しましたが、これは増税のことです。

結局最後は全部増税で解決することになりますが、これは解決ではなく、放棄することと全く同じです。具体論を語らない社長は最後に赤字を出して会社を倒産させますが、具体論を語らない議員は最後に増税や赤字国債に逃げ込むのです。

国は倒産することもあるのです。現にアイスランドやハンガリーなどはもうそうなりました。増税できない今、このまま赤字国債を出し続けると日本も危機的な状況に陥るに違いありません。

まあ、雑草のような私が政治家に文句をいうつもりはありませんが、「経済評論家」としてコメンテーターを依頼された以上、意識して聞くしかありません。番組や視聴者への義務として。

それと、今日、読者の皆様に一つ身上のことを申し上げます。
毎週のようにテレビの番組に出ると、私はほとんど日本から離れることができなくなりました。

この3年間断ってきた講演は今後、少しずつ受けさせていただくことにしたいと思います。必ず参れるとは限りませんし、ちゃんと講演料も「むしり取る」のでそれでも呼びたい方は以下のところまでご連絡ください。
soubunshu@softbrain.co.jp(担当:高橋)

資本主義は勝ったか

今日は硬い話題で申し訳ございません。

社会主義の教育を受けたことのある人間として、私は社会主義の問題提起と社会理想について、今もすばらしいと思います。

「労働は価値の唯一の源泉」。資本から莫大な利益を生み出す資本主義においては、とても弱々しい主義主張に聞こえますが、現在の恐慌の根っこにあるのは資本への過剰依存です。

サブプライム問題はサブプライム・ローンの問題です。お金を貸して利息を取るのは当然ですが、問題は払う能力がない人達にもお金を貸し付けてマイホームを買わせたことです。

そんな悪いローンをミンチにして売ったのが欧米の銀行でした。ミートホープのやり方のそっくりですが、違うのはそのスケールの巨大さです。世界を代表する金融機関が先頭にそれを売るからたまったものではありません。

「金から金を産む」。少数の人間がそんなことをやっているだけなら社会は何とか持ちますが、数億人の民とすべての金融機関がそれに加担すると世界は持ちません。日本では「金貸し」が蔑称であるように、「金から金を産む」の行き過ぎは必ず社会の堕落をもたらします。

しかし、「資本を持つ人が優先」という発想は資本主義の基礎です。だから資本主義といいます。金の力を優先すると必ず労働の価値が疎かにされ、いつか経済システムにひずみが溜まり爆発する。これが経済危機の由来です。

かつて、社会主義が地球上の半分近くの人々に受け入れられた理由も、ここにあるのです。人々は資本主義の毒を取り除くために、社会主義の毒を飲んだのです。

弁証法的に言うと、社会主義と資本主義が対立しながら競い合う社会は健全な社会です。お互いが相手の弱みを攻撃し、自分の弱みを克服していけば、地球上の民が幸福です。今だから言えますが、東西冷戦の時代では、世界はもっと平和で、経済危機も小規模でした。

資本主義が社会主義に勝ってから、この地球のバランスが悪くなりました。誰も「金の乱暴」について批判しなくなります。当時の社会主義リーダーであったソビエトはロシアなどに分裂し、従来の資本主義以上に搾取と格差が氾濫する社会に変わりました。

社会主義の毒を飲んだ人々はその毒をやめましたが、だからといって資本主義の毒が取り除かれたわけではありません。むしろ「毒をもって毒を制する」効果がない分、資本主義の毒が膨張し、自ら中毒してふらふらし始めました。

弁証法で言えば、物事は常に二つの矛盾の対立統一によって成り立つ。つまり、相反する二つの側面が対立しながら共存することによって物事のバランスが成り立ちます。バランスが取れない物事が新たなバランスを求めて自ら変化します。

この弁証法の理論から言えば、戦後の資本主義が「社会主義に勝った」瞬間からもう変質を始めました。NATOの拡大やイラク戦争、労働運動の弱体化とネオコンの台頭、格差の拡大と金融派生商品の氾濫、どれをみてもその源流はソビエトの崩壊から見出すことができます。

全体主義のソビエトが懐かしいわけではありません。あんなひどい社会の再来を期待するわけでもありません。しかし、現在の資本主義の対立軸が必要であることは間違いないようです。

その対立軸は争いを招くものではなく、バランスを取るためのものです。その対立軸は現在の資本主義の中から生み出されるかもしれませんし、元の社会主義から生み出されるかもしれません。

何と呼ぶかは重要ではありません。重要なのは既存システムへの耐性であり、バランスです。これまでのグローバルスダンダートは危機の拡大を招き、世界を暴走させました。

アジア主義ではありませんが、日本や中国など、アジアの国々からその新しい社会システムの提案が生まれることを期待してやみません。